みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

一方の子羊を朝献げ、もう一方の子羊を夕暮れに

「彼らに言え。これがあなたがたが主に献げる食物のささげ物である。傷のない一歳の雄の子羊を、毎日二匹、常供の全焼のささげ物として、一方の子羊を朝献げ、もう一方の子羊を夕暮れに献げなければならない。」(民数記28:3-4)

 

28章では、あらためて種々のささげ物について示された。

カナンの地に入る新しい世代が、確認しておく意味だろう。

 

イスラエルの子らに命じて彼らに言え。あなたがたは、わたしのための食物、わたしへのささげ物を、わたしへの食物のささげ物、芳ばしい香りとして、定められた時に確実にわたしに献げなければならない。」(2)

 

「定められた時に確実に」とあるように、それぞれのささげ物は、その時期や献げ方が細かく決められている。

 

例えば、冒頭の日々の常供のささげ物についてはこうある。

 

穀物のささげ物として、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパ。・・・それに添える注ぎのささげ物は、子羊一匹につき四分の一ヒンとする。聖所で、主への注ぎのささげ物として強い酒を注ぎなさい。」(5・7)

 

このほか、安息日(9)、新月祭(11)、過越しの祭り(16)、種なしパンの祭り(17)、七週の祭り(26)について、それぞれ細かく記されている。

 

ここで考えてみたい。

いったい何のために、これらのささげ物が決められたのか。

 

主は牛や羊が好きなのだろうか。

そうではない。

それらをとおして、民が、主に心を向け、感謝と喜びに満たされるためだ。

 

もしこれが、単なる義務として面倒臭そうに行われたとしたら、どれだけ忠実に献げたとしても、主は喜ばれない。

 

家族の誕生日ケーキを、代々伝わる秘伝のレシピで作る母親を想像してみよう。

家族のお祝いのため、喜びながら、面倒臭がらずに、忠実に作りあげることだろう。

そこには家族への愛があり、喜ばせたいという心がある。

 

わたしたちもまた、日々、聖書を読み、祈るときに、かくありたい。

朝に、夕に、そのような時が必要だ。

 

読み方、祈り方には決まりはないが、主を思い、感謝と喜びをもって、その時をもちたい。

四日前にイエスさまがわたしのために死なれ、昨日わたしのためによみがえられたかのような、そんな新鮮な喜びをもって、聖書を読みたい。

 

だが、イエスご自身は寂しいところに退いて祈っておられた。(ルカ5:16)

 

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