人が憎しみをもって人を
「もし、人が憎しみをもって人を突き倒すか、あるいは悪意をもって人に物を投げつけて死なせたなら、または、敵意をもって人を手で打って死なせたなら、その打った者は必ず殺されなければならない。その人は殺人者である。」(民数記35:20-21)
35章では、いわゆる「逃れの町」について記してある。
故意ではなく人を殺してしまった者が、復讐を避けて守られるための町だ。
現代に、そのような場所を置いている国があるだろうか。
ちょっと思い当たらない。
本筋からはすこし外れるが、冒頭のみことばが胸に刺さった。
ここに、「憎しみ」「悪意」「敵意」とある。
そのような思いを持って人を殺したら、当然、「殺人者」とされた。
なぜ胸に刺さるのか。
それらの思いが自分のなかにあることを、日々、感じているからだ。
作家・三浦綾子さんの代表作『氷点』も示すように、わたしの心の奥底にぞっとするほど冷たいものが存在している。
右も左もわきまえない幼子だったときには、そのような思いがあっただろうか。
無かったように思う。
いつから湧いてきて、いつから膨張したのだろうか。
イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコ7:20-23)
これらは人を苦しめ、傷つけ、不幸にする。
パウロは、叫んだ。
私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。(ローマ7:24-25)
聖霊を求め、聖霊に満たされ、主の心で歩むときにのみ、解放される。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。(ガラテヤ5:22-23)