相続地を堅く守らなければならない
「『このように、相続地は、部族からほかの部族に移してはならない。イスラエルの子らの部族は、それぞれ、自分たちの相続地を堅く守らなければならないからである。』」(民数記36:9)
民数記も、今回で最後だ。
最終章は、相続地に関する啓示である。
かつて、ツェロフハデの娘たちが、モーセに「女姉妹だけの自分たちにも土地を所有する権利がある」と直訴して、認められた。
今度は、その親族が、「彼女たちが他の部族に嫁いだら、われわれの相続地はなくなってしまう」と訴えた。
そこで、モーセに主から対処法が与えられる。
「主がツェロフハデの娘たちについて命じられたことは次のとおりである、『彼女たちは、自分が良いと思う人に嫁いでよい。ただし、彼女たちの父の部族に属する氏族に嫁がなければならない。イスラエルの子らの相続地は、部族から部族に移してはならない。イスラエルの子らは、それぞれその父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからである。』」(6-7)
こうして、彼女たちの土地が受け継がれることが保証された。
神から与えられた土地を代々受け継いでいくことは、イスラエルの民にとってとても重要なことだった。
「ほかの部族に移してはならない」(9)のだ。
この規定は、無駄な争いを避ける意味もあっただろう。
土地を侵略するのが戦争であり、それは歴史が証明している。
それぞれが与えられた場所で満足しているなら、争いは起きない。
あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。(ヤコブ4:1-2)
わたしには、わたしに与えられた分がある。
捨ててもいけないし、他から奪おうとしてもいけない。
金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。(ヘブル13:5)
人が憎しみをもって人を
「もし、人が憎しみをもって人を突き倒すか、あるいは悪意をもって人に物を投げつけて死なせたなら、または、敵意をもって人を手で打って死なせたなら、その打った者は必ず殺されなければならない。その人は殺人者である。」(民数記35:20-21)
35章では、いわゆる「逃れの町」について記してある。
故意ではなく人を殺してしまった者が、復讐を避けて守られるための町だ。
現代に、そのような場所を置いている国があるだろうか。
ちょっと思い当たらない。
本筋からはすこし外れるが、冒頭のみことばが胸に刺さった。
ここに、「憎しみ」「悪意」「敵意」とある。
そのような思いを持って人を殺したら、当然、「殺人者」とされた。
なぜ胸に刺さるのか。
それらの思いが自分のなかにあることを、日々、感じているからだ。
作家・三浦綾子さんの代表作『氷点』も示すように、わたしの心の奥底にぞっとするほど冷たいものが存在している。
右も左もわきまえない幼子だったときには、そのような思いがあっただろうか。
無かったように思う。
いつから湧いてきて、いつから膨張したのだろうか。
イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコ7:20-23)
これらは人を苦しめ、傷つけ、不幸にする。
パウロは、叫んだ。
私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。(ローマ7:24-25)
聖霊を求め、聖霊に満たされ、主の心で歩むときにのみ、解放される。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。(ガラテヤ5:22-23)
塩の海
「あなたがたの南側は、エドムに接するツィンの荒野に始まる。南の境界線は、東の方の塩の海の端に始まる。」(民数記34:3)
34章では、カナンの地における部族ごとの割り当て地が述べられる。
主はモーセに告げられた。「イスラエルの子らに命じて彼らに言え。あなたがたがカナンの地に入るときには、あなたがたへのゆずりとなる地、カナンの地とその境界は次のとおりである。」(2)
そして、冒頭のように、南の境界線の東端が「塩の海」と定められた。
今回は、この「塩の海」について確認しておきたい。
塩の海とは、いわゆる「死海」のことだ。
塩分濃度が高いため、水面に寝っ転がって本を読むことができる。(なぜ本を読むのかは不明)
このほかにも、塩の海は不思議な点が多々ある。
まず、同じような例が地球上に無い。
そして、海抜から極端に低い。(マイナス430mと、地表でもっとも低い)
魚も棲めない。(ゆえに死海)
川が流れ出ない。(蒸発する)
なぜ、こんな湖が存在するのか。
よく知られるように、ここにはかつて、ソドムとゴモラという道徳的に退廃しきった町があった。
神は天変地異によって町ごと滅ぼされ、逃げ出したロトの妻は振り向いて塩の柱となった。(創世記19:26)
そこが、「塩の海」だ。
Googleで「ヨルダン渓谷」と検索すると、わかりやすい地図を見ることができる。
ガリラヤ湖からヨルダン川が流れ出し、120キロかけて塩の海に注ぐ。
地形的には、そこからさらに南方のアカバ湾にかけて大きな裂溝があることがわかる。
塩の海の、大きさを見てみよう。
()内は、日本の琵琶湖のものだ。
南北85キロ(60キロ)、東西16.5キロ(20キロ)、面積945㎢(670㎢)。
琵琶湖の約1.4倍と、かなり大きい。
このような非常に特殊な場所がここにあること自体が、聖書の史実性を保証し、神がイスラエルを特別な場所として見ておられることの証左になると、私は思う。
いま、世界情勢がただならぬ状況にあるが、遅かれ早かれイスラエルが焦点となり、世界史が大きく動く。
このようなときにこそ、主に信頼し、着実に歩みたい。
「また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。」(マタイ24:6-8)
イスラエルの子らの旅程
モーセとアロンの指導のもとに、その軍団ごとにエジプトの地から出て来たイスラエルの子らの旅程は次のとおりである。(民数記33:1)
山脈を縦走し、最終ピークから振り返って歩いて来た山並みを見る感動は、体験した者にしかわからないだろう。
「これだけを、よく歩いて来たなあ」と満足する至福の時だ。
33章は、出エジプト以降40年に渡る旅路の記録である。
ただ彼らの場合は、満足しながら眺めるというわけにはいかない。
なぜなら、その長い行程が不信仰の罪によるものであり、道中においても何度も罪を犯してきたからだ。
どちらかと言えば、「よく主はわたしたちを見捨てなかったなあ」ということになるだろう。
「~を旅立って~に宿営し」という表現が数えきれないほどくり返される。
これまで登場していない土地も、多々出てくる。
まさに彷徨い歩いた記録だ。
申命記には、こうある。
「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。」(申命記8:2)
聖書全体からはっきり言えることは、苦しみは神の試験であるということだ。
それは、「あなたの心のうちにあるものを知るため」だ。
まるで、すごろくのように、彷徨い歩いたイスラエル。
進んでは戻り、戻っては進み、四十年。
いま、わたしはどこにいるのだろうか。
いま、どのような苦しみによって試されているのだろうか。
わたしの心のうちには、何があるだろうか。
「それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。・・・あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを知らなければならない。」(申命記8:3・5)
ルベン族とガド族
ルベン族とガド族は、多くの家畜を持っていた。それは、おびただしい数であった。彼らがヤゼルの地とギルアデの地を見ると、その場所は家畜に適した場所であった。(民数記32:1)
32章では、ルベン族とガド族が土地のことでイスラエルの民に持ち出した提案について記されている。
そこでガド族とルベン族は、モーセと祭司エルアザル、および会衆の上に立つ族長たちのところに来て、次のように言った。・・・「もし、私たちの願いがかないますなら、どうか、しもべどもがこの地を所有地として賜りますように。私たちにヨルダン川を渡らせないでください。」(2・5)
家畜を多く持つ彼らは、ヨルダン川を渡らずに、牧畜に適したヤゼルとギルアデに住みたいと申し出た。
「私たちにヨルダン川を渡らせないでください」という言葉は、モーセの逆鱗に触れた。
40年前に民の意気をくじいた、あの斥候たちと重なったのだ。
「どうして、イスラエルの子らの意気をくじいて、主が与えてくださった地へ渡らせないようにするのか。」(7)
結局、そのときの彼らの不信仰のゆえに、40年も放浪することになった。
同じ轍を踏むことは、モーセとしては絶対に許されないことだった。
「あなたがたが背いて主に従わないなら、主は再びこの民をこの荒野に見捨てられる。そしてあなたがたは、この民全体に滅びをもたらすことになるのだ。」(15)
モーセは、ルベン族とガド族を「罪人の子ら」(14)と非難しているが、果たして彼らは不信仰からこのような申し出をしたのだろうか。
この箇所だけからは、読み取れない。
ただモーセは、それを感じ取ったのかもしれない。
見ようによっては、彼らは真っ当な判断で申し出ている。
適材適所というやつだ。
彼らは、動揺するイスラエルの族長たちに、こう告げる。
「しかし私たちは、イスラエルの子らを彼らの場所に導き入れるまで、武装して先頭に立って急ぎ進みます。・・・私たちは、イスラエルの子らがそれぞれその相続地を受け継ぐまで、自分の家に帰りません。」(17-18)
潔い言葉だ。
自分たちは最前線で戦う、と言っている。
それを聞いてモーセも、「それなら、よし」とした。
ルベン族とガド族の思いきった申し出と、潔い言葉。
一度は激怒したものの、彼らの言い分をよく聞き、考えを改めたモーセ。
主は、いろいろな働きかたをされる。
ガド族とルベン族は答えた。「主があなたのしもべたちに語られたことを、私たちは実行いたします。」(31)
ミディアン人に主の復讐をするため
そこでモーセは民に告げた。「あなたがたのうち、男たちは戦のために武装せよ。ミディアン人を襲って、ミディアン人に主の復讐をするためである。」(民数記31:3)
主はモーセに、最後の仕事を言いつけられた。
主はモーセに告げられた。「あなたは、イスラエルの子らのために、ミディアン人に復讐を果たせ。その後で、あなたは自分の民に加えられる。」(1-2)
復讐とは、「ペオルの事件」に対するものだ。
ミディアン人に惑わされ、イスラエルの多くの者が偶像崇拝に陥り、死んだ。
その復讐をせよ、ということだ。
このような箇所を読むと、神が戦争を命じているのかと、いぶかる人も多いことだろう。
事実そうではあるが、解説を見るとこうある。
「これは、主がイスラエルを用いてミデヤンに与える罰である」
神はミディアン人の退廃ぶりを見て、ノアの洪水のときのように、さばこうとされているのだ。
12千人の戦士が選び出され、ミディアン人を襲い、すべての成人男子を殺した。
しかし、女性や子どもは捕らえて連れて来た。
これに対してモーセは激怒し、処女以外はすべて殺すよう命じる。
子どもの男子も容赦しなかった。
このようなモーセの指示も、現代の日本人としては大きな抵抗感を禁じ得ない。
もちろん、このような殺害を、今日正当化することは許されない。
ひとつ注目したいのは、あのバラムもさばかれたことだ。
また、ベオルの子バラムを剣で殺した。(8)
彼はかつてイスラエルを呪うために雇われ、かえって祝福してしまった人物だが、ペオルの事件の首謀者と言われている。
聖書には、解釈に苦しむ箇所も多々ある。
しかし、意味がないことは一つもない。
自分勝手な解釈だけは、避けたいところだ。
「けれども、あなたには少しばかり責めるべきことがある。あなたのところに、バラムの教えを頑なに守る者たちがいる。バラムはバラクに教えて、偶像に献げたいけにえをイスラエルの子らが食べ、淫らなことを行うように、彼らの前につまずきを置かせた。」(黙示録2:14)
主に誓願するか、あるいは物断ちをする場合
「女が若くてまだ父の家にいるときに、主に誓願をするか、あるいは物断ちをする場合には、その父が彼女の誓願、あるいは物断ちを聞いて、彼女に何も言わなければ、彼女のすべての誓願は有効となる。彼女の物断ちもすべて有効となる。」(民数記30:3-4)
30章は、「主に誓願をするか、あるいは物断ちをする場合」の規定だが、おもに女性に関する内容だ。
上のように、女性が若く、父の家にいる場合には、誓願や物断ちの有効性は、父の判断によった。
「しかし、もし父がそれを聞いた日に彼女に反対するなら、彼女の誓願、あるいは物断ちはすべて無効としなければならない。彼女の父が彼女に反対するのであるから、主は彼女を赦される。」(5)
誓願をしたあとで嫁いだ場合は、その夫の判断によった。(6-8)
やもめや離縁された女については、すべて「当人に対して有効」とされ(9)、結婚後に誓願をした場合には、やはりその夫の判断によるとされた。(10-12)
「すべての誓願も、自らを戒めるための物断ちの誓いもみな、夫がそれを有効にすることができるし、それを破棄することもできる。・・・もし夫がそれを聞いた後、それを破棄するなら、夫が彼女の咎を負う。」(13・15)
最後のことばは重い。
夫の判断にゆだねられると同時に、責任は夫が負うのだ。
アダムとエバのときから、夫が責任を問われることは変わらない。
聖書は、人権は男女とも同じだが、神の前におけるあり方は男女ではっきり区別している。
しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。・・・男は神のかたちであり、神の栄光の現れなので、頭にかぶり物を着けるべきではありません。一方、女は男の栄光の現れです。男が女から出たのではなく、女が男から出たからです。また、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたからです。(1コリント7:3・7-9)
今日では、このようなことは時代錯誤として批判されるだろう。
しかし、これが聖書の、つまり神の原則だ。
神の定めがますます乱れている現状に、終わりのときが近づいていることを感じる。
私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。(1テモテ2:12-14)