みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

第七の月

「第七の月には、その月の一日に聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは、いかなる労働もしてはならない。これを、あなたがたにとって角笛が吹き鳴らされる日としなければならない。」(民数記29:1)

 

29章では、「第七の月」に行われる祭りについてまとめられている。

七日目が安息日であるように、第七の月が安息の月という意味があるそうだ。

 

第七の月の一日に、角笛が吹き鳴らされた。

「ラッパの祭り」だ。

イスラエルの民の気分も、高揚したことだろう。

 

この第七の月の十日には、あなたがたは聖なる会合を開き、自らを戒めなければならない。いかなる仕事もしてはならない。(7)

 

十日は、「贖罪の日」とされた。

年に一度だけ、大祭司が至聖所に入り、民の罪を贖う日だ。

 

第七の月の十五日には、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。いかなる労働もしてはならない。あなたがたは七日間、主の祭りを祝え。(12)

 

八日目に、あなたがたはきよめの集会を開かなければならない。いかなる労働もしてはならない。(35)

 

十五日からは「仮庵の祭り」であり、一週間にわたってささげ物が献げられた。

 

第七の月が、イスラエルの民にとって、いかに大きなイベントの月かがわかる。

以後連綿とこの行事が守られるのだが、およそ千五百年経ったある年の「第七の月」は大混乱となった。

 

時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ7:2-6)

 

しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったあとで、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた。(同10)

 

八日間にわたる祭りの半ばで、イエスさまは立ち上がられた。

 

祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた。ユダヤ人は驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」(同14-15)

 

エスさまが語れば語るほど、群衆は信じる者と信じない者に分かれた。

八日目、すなわち祭りの最終日のイエスさまのことばを、あらためて味わおう。

 

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(同37-38)

 

 

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一方の子羊を朝献げ、もう一方の子羊を夕暮れに

「彼らに言え。これがあなたがたが主に献げる食物のささげ物である。傷のない一歳の雄の子羊を、毎日二匹、常供の全焼のささげ物として、一方の子羊を朝献げ、もう一方の子羊を夕暮れに献げなければならない。」(民数記28:3-4)

 

28章では、あらためて種々のささげ物について示された。

カナンの地に入る新しい世代が、確認しておく意味だろう。

 

イスラエルの子らに命じて彼らに言え。あなたがたは、わたしのための食物、わたしへのささげ物を、わたしへの食物のささげ物、芳ばしい香りとして、定められた時に確実にわたしに献げなければならない。」(2)

 

「定められた時に確実に」とあるように、それぞれのささげ物は、その時期や献げ方が細かく決められている。

 

例えば、冒頭の日々の常供のささげ物についてはこうある。

 

穀物のささげ物として、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパ。・・・それに添える注ぎのささげ物は、子羊一匹につき四分の一ヒンとする。聖所で、主への注ぎのささげ物として強い酒を注ぎなさい。」(5・7)

 

このほか、安息日(9)、新月祭(11)、過越しの祭り(16)、種なしパンの祭り(17)、七週の祭り(26)について、それぞれ細かく記されている。

 

ここで考えてみたい。

いったい何のために、これらのささげ物が決められたのか。

 

主は牛や羊が好きなのだろうか。

そうではない。

それらをとおして、民が、主に心を向け、感謝と喜びに満たされるためだ。

 

もしこれが、単なる義務として面倒臭そうに行われたとしたら、どれだけ忠実に献げたとしても、主は喜ばれない。

 

家族の誕生日ケーキを、代々伝わる秘伝のレシピで作る母親を想像してみよう。

家族のお祝いのため、喜びながら、面倒臭がらずに、忠実に作りあげることだろう。

そこには家族への愛があり、喜ばせたいという心がある。

 

わたしたちもまた、日々、聖書を読み、祈るときに、かくありたい。

朝に、夕に、そのような時が必要だ。

 

読み方、祈り方には決まりはないが、主を思い、感謝と喜びをもって、その時をもちたい。

四日前にイエスさまがわたしのために死なれ、昨日わたしのためによみがえられたかのような、そんな新鮮な喜びをもって、聖書を読みたい。

 

だが、イエスご自身は寂しいところに退いて祈っておられた。(ルカ5:16)

 

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あなたの手を彼の上に置け

主はモーセに言われた。「あなたは、神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを連れて来て、あなたの手を彼の上に置け。」(民数記27:18)

 

主はモーセに、山に登るように指示された。

 

主はモーセに言われた。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエルに与えた地を見よ。それを見て、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたのと同じように、自分の民に加えられる。」(12-13)

 

死を予告されたモーセだが、きっと、安堵の思いがしたのではないだろうか。

(ようやくこの務めを終えて、主のみもとに行ける)と。

 

しかし、残される民のことは心配だった。

(自分のような主との仲立ちをする指導者がいなければ、どうなってしまうだろう)と考えたのではないか。

 

モーセは主に言った。「すべての肉なるものの霊をつかさどる神、主よ。一人の人を会衆の上に定め、彼が、彼らに先立って行き、先立って入り、また彼らを導き出し、導き入れるようにしてください。主の会衆を、羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください。」(15-17)

 

モーセの祈りには、いくつかの驚くべき点がある。

 

第一に、自分のことはいっさい祈っていない。

せめてカナンの入口まで行きたいとか、山の上からイスラエルが約束の地に入るのを見たいなどとは言っていない。

 

第二に、ヨシュアの名前をいっさい出していない。

ヨシュアは山で十戒を受けた頃からずっとモーセに仕えてきた、もっとも信頼できる人物だ。

モーセとしては、彼以上の後任者は考えられなかっただろう。

しかし、「みこころに適うなら、ヨシュアが適任かと存じます」などとは言っていない。

すべてを、神の御手に委ねている。

 

第三に、民のことだけを考えている。

あれほどモーセに逆らい、悩みの種であったイスラエルの民を、モーセは、主が愛されるように愛した。

 

主は、いつの時代でも、神のしもべを備えてくださる。

モーセのときが、終わろうとしている。

 

モーセは主が命じられたとおりに行った。ヨシュアを連れて来て、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、自分の手を彼の上に置いて、主がモーセを通して告げられたとおりに任命した。(22-23)

 

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二十歳以上の者を数えなさい

「主がモーセに命じられたように、二十歳以上の者を数えなさい。」(民数記26:4)

 

ここで、二回目の人口調査が行われる。

1章の調査以来、40年ぶりのことだ。

 

この主の罰の後のことであった。主はモーセと祭司アロンの子エルアザルに告げられた。「イスラエルの全会衆について、一族ごとに、二十歳以上で、イスラエルで戦に出ることができる者すべての頭数を調べなさい。」(1-2)

 

「主の罰」とは、前章のペオルの事件で二万四千人が死んだことを指す。

調査の結果は、次のとおり。()内は一回目の調査の数字だ。

 

  • ルベン族/43,730人(46,500)
  • シメオン族/22,200人(59,300)
  • ガド族/40,500人(45,650)
  • ユダ族/76,500人(74,600)
  • イッサカル族/64,300人(54,400)
  • ゼブルン族/60,500人(57,400)
  • マナセ族/52,700人(32,200)
  • エフライム族/32,500人(40,500)
  • ベニヤミン族/45,600人(35,400)
  • ダン族/64,400人(62,700)
  • アシェル族/53,400人(41,500)
  • ナフタリ族/45,400人(53,400)

 

合計601,730人で、一回目より1,820人少なくなっている。

部族ごとに見ると、シメオン族が最も少なく、減少率も大きい。

これはペオルの事件にかかわった者が多かったためと言われる。

 

これとは別に、レビ族は23,000人となっている。

戦に出ることはないので、レビ族だけ「1か月以上の男子」の数だ。(62)

 

しかし、この中には、シナイの荒野でモーセと祭司アロンがイスラエルの子らを登録したときに登録された者は、一人もいなかった。それは主がかつて彼らについて、「彼らは必ず荒野で死ぬ」と言われたからである。彼らのうち、ただエフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかには、だれも残っていなかった。(64-65)

 

これらのことから、以下のことが言える。

  1. 主は罪をかならずさばかれる
  2. 人口の増加は主の祝福である
  3. 主はご自身のことばをかならず実行される

 

期待をもって、主を待ち望もう。

 

雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出ることばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。(イザヤ55:10-11)

 

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ペオルの事件

主はモーセに告げられた。「ミディアン人を襲い、彼らを討て。彼らは巧妙に仕組んだ企みによって、ペオルの事件であなたがたを襲ったからだ。ペオルの事件の主の罰の日に殺された彼らの同族の女、ミディアンの族長の娘コズビの一件だ。」(民数記25:16-18)

 

どんな政敵も「飲ませる、抱かせる、掴ませる」の三点セットで堕とすことができるという。

イスラエルの足元をすくう、ハニートラップが仕掛けられた。

 

イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた。その娘たちが、自分たちの神々のいけにえの食事に民を招くと、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。(1-2)

 

冒頭にあるように、これは「巧妙に仕組んだ企み」だった。

イスラエルは性的に乱れ、偶像崇拝までするようになった。

 

こうしてイスラエルはバアル・ペオルとくびきをともにした。すると、主の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。(3)

 

このとき、主の罰によって二万四千人が死んだ。(9)

大変な数だ。

 

神罰を止めたのは、アロンの孫にあたるピネハスだった。

一人のイスラエル人がミディアンの女と共にテントに入って行くのを見て、彼は立ち上がった。

 

祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスはそれを見るや、会衆の中から立ち上がり、槍を手に取り、そのイスラエル人の男の後を追ってテントの奥の部屋に入り、イスラエル人の男とその女の二人を、腹を刺して殺した。するとイスラエルの子らへの主の罰が終わった。(7-8)

 

これが「ペオルの事件」だ。

後のイスラエルの民にとって、痛い教訓となったことだろう。

 

主は、ピネハスについてこう語られた。

 

「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、イスラエルの子らに対するわたしの憤りを押しとどめた。彼がイスラエルの子らのただ中で、わたしのねたみを自分のねたみとしたからである。それでわたしは、わたしのねたみによって、イスラエルの子らを絶ち滅ぼすことはしなかった。」(11)

 

ピネハスは、主のねたみを自分のねたみとした。

それほどに、主と心を一つにしていたのだ。

彼のあり方に、少しでも倣いたい。

 

彼らはまた、バアル・ペオルとくびきをともにし、死者へのいけにえを食べた。こうして、自らの行いによって御怒りを引き起こし、彼らに主の罰が下った。

そのとき、ピネハスが立ち、仲立ちをしたので、主の罰は終わった。このことは、代々にわたり永遠に、彼の義と認められた。(詩篇106:28-31)

 

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あなたを祝福する者は祝福され

「雄獅子のように、また雌獅子のように、彼は身を伏せ、横たわる。だれがこれを起こせるだろう。あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。」(民数記24:9)

 

結局、バラムは三度目も、イスラエルをおもいきり祝福した。

もちろんこれは、主が彼の口に置いたことばによるものだ。

 

「あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる」ということばは、かつてアブラハムが神から与えられたものと重なる。

 

主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:1-3)

 

旧約聖書の時代から今日に至るまで、世界はこの原則で動いている。

好むと好まざるとにかかわらず、世界の中心はイスラエルなのだ。

 

怒り心頭のバラクに対し、バラムはさらに預言を続けた。

 

「私には彼が見える。しかし今のことではない。私は彼を見つめる。しかし近くのことではない。ヤコブから一つの星が進み出る。イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみを、すべてのセツの子らの脳天を打ち砕く。」(17)

 

これは具体的にはダビデのことのようだが、さらに言えば、イエス・キリストにつながることばだ。

 

バラムは多神教に根ざした偽預言者であるにもかかわらず、そういう人物でも神がこのようにお用いになることがあるのは、考えてみれば不思議なことである。

 

悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。(1ペテロ3:9)

 

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神が祝福されたのだ

「見よ、私は、祝福せよとの命を受けた。神が祝福されたのだ。私はそれをくつがえすことはできない。」(民数記23:20)

 

バラムはバラクに連れ出されてバモテ・バアルに上り、イスラエルの民の一部を見た。

そこでバラクは祭壇を作っていけにえを献げ、バラムがイスラエルを呪うのを待った。

 

ところが、バラムはこう語った。

 

「私はどうして呪いをかけられるだろうか。神が呪いをかけない者に。私はどうして責めることができるだろうか。主が責めない者を。」(8)

 

バラムは、イスラエルを呪うどころか、祝福した。

 

ラクは彼に言った。「では、私と一緒に彼らを見ることができる別の場所へ行ってください。・・・そこから私のために彼らに呪いをかけてください。」(13)

 

ピスガの頂に連れて行かれたバラムは、そこでも冒頭のとおり、再びイスラエルを祝福した。

 

さらにバラクは食い下がる。

 

ラクはバラムに言った。「では、私はあなたを、もう一つ別の場所へ連れて行きましょう。もしかしたら、それが神の御目にかなって、あなたは私のために、そこから彼らに呪いをかけることができるかもしれません。」(27)

 

次章では、結局この三度目もイスラエルは祝福されることになる。

そしてバラクは、バラムに対して怒りを燃やす。

 

ラクの態度は、次のようなものだった。

  1. 神の祝福を金で買おうとした
  2. 神に祝福を祈り求めるのでなく、命令した
  3. はじめから自分の意向があり、神に対して聞く耳はない

 

この中でも、特に3.については、わたしたちもまた、よくよく注意しなければならないと思う。

 

例えば、誰かに相談を持ちかけるとする。

そのとき、たいていは、自分の意に添う答えを言ってくれそうな人を選ばないだろうか。

意に添わない答えの場合は、バラクのように、あの人、この人と渡り歩き、“相談ジプシー”となる。

こういうことは、よくあることだ。

 

このような“バラク的”な態度の対極が、イエスさまだ。

 

「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)

 

この態度にこそ真の自由があることを、キリスト者は知っている。

きょう新たに、イエスさまに倣おう。

 

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。(2テモテ4:2-4)

 

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