みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

主がろばの口を開かれた

ろばは主の使いを見て、バラムを乗せたまま、うずくまってしまった。バラムは怒りを燃やし、杖でろばを打った。すると、主がろばの口を開かれたので、ろばはバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」(民数記22:27-28)

 

イスラエルの快進撃を見て、モアブの王バラクは恐れをなした。

隣国ミディアンと同盟を結び、占い師バラムを呼び寄せてイスラエルを呪わせようとする。

 

モアブの長老たちとミディアンの長老たちは、占い料を手にしてバラムのところに行き、バラクのことばを告げた。(7)

 

しかしバラムは、神から特別な啓示を受け、モアブに行くことを断った。

「占い料を手にして」とわざわざ記してあることから、バラムの心がそこにあることを示唆しているように思える。

 

ラクは、さらに多くのより位の高い者たちを遣わした。

 

しかし、バラムはバラクの家臣たちに答えた。「たとえバラクが銀や金で満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主の命を破ることは、事の大小にかかわらず、断じてできません。」(18)

 

一見信仰的に見えるが、図らずも彼の関心が銀や金にあることが露呈されている。

 

「ですから、あなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私に何かほかのことをお告げくださるかどうか確かめましょう。」(19)

 

(ふむふむ、これはなかなかの大口案件だわい)と、バラムは心中ほくそえんだ。

わたしが映画監督なら、19節の前に「ん、ううん」と咳払いの一つでも入れるところだ。

「まあ、あなたがたがそこまで言うのなら、考えてみないこともないんですがねえ」

と、片方の眉毛を上げさせる。

 

彼の預言者然とした振る舞いにバラクの家臣たちは魅了されただろうが、主の目はごまかせなかった。

彼が欲に根差して行動していたことを、ろばを通して示されたのだ。

 

ろばは、主の使いが抜き身の剣を手に持って、道に立ちはだかっているのを見た。ろばは道からそれて畑に入って行ったので、バラムはろばを打って道に戻そうとした。(23)

 

このようなことが三度続いてから、冒頭のように、ろばが人間の言葉でものを言ったのだ。

 

一連の過程の中で、バラムが一見信仰的に見えるところが、この記事の怖いところだ。

わたしたちもまた、欲に引きずられていながら、それを信仰的なものでごまかす危険がある。

よくよく注意せねば。

 

彼らは正しい道を捨てて、さまよっています。ベオルの子バラムの道に従ったのです。バラムは不義の報酬を愛しましたが、自分の不法な行いをとがめられました。口のきけないろばが人間の声で話して、この預言者の正気を失ったふるまいをやめさせたのです。(2ペテロ2:15-16)

 

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青銅の蛇

モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。(民数記21:9)

 

イスラエルの民は、カナンの地に向けて新たに進み始めた。

しかし、水のない荒野で、民はまたしてもモーセに不満をぶつけた。

 

しかし民は、途中で我慢ができなくなり、神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」(4-5)

 

彼らの不平に対し、主は厳しく対処された。

 

そこで主は民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。(6)

 

非常に殺傷能力の高い蛇だったことがわかる。

民は態度を一変させ、モーセに祈ってくれるよう頼む。

 

モーセは民のために祈った。すると主はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」(7-8)

 

そして冒頭のように、そのとおりになった。

 

「信仰」という言葉は、すばらしい言葉だと思う。

「信じて、仰ぐ」のだ。

 

信じて理解するのでもなければ、信じて納得するのでもない。

ただ、仰ぎ見る。

これが信仰の本質だろう。

まさに、幼子のわざだ。

 

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)

 

この青銅の蛇は、そのまま主イエス・キリストを予表している。

蛇にかまれた民は、毒が体内に巡っているにもかかわらず、青銅の蛇を仰ぎ見れば助かった。

同様に、罪の毒におかされた人間も、主イエスを仰ぎ見れば救われる。

 

日々の信仰の歩みにおいてもまた、同様だ。

わたしたちの肉にはいまだ毒が存在するが、主イエスを仰ぎ見れば、毒は力を失う。

さまざまな戦いや誘惑の中にあっても、その都度、主イエスを仰ぎ見よう。

約束の地目指して、信仰から信仰へ、勝利から勝利へと、進もうではないか。

 

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14-15)

 

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わたしが聖であることを現わさなかった

しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現わさなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」(民数記20:12)

 

なんということだろう。

出エジプトから40年間、主と民とに忠実に仕え、民を導いてきたモーセとアロンが、目指すカナンの地に入ることができないと告げられた。

彼らが主を「信頼せず」、主が「聖であることを現わさなかった」ためだ。

 

水のない荒野で、民が二人に詰め寄ったのが発端だった。

ひれ伏すモーセとアロンに、主が語られた。

 

主はモーセに告げられた。「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。(7-9)

 

問題は、このあとだ。

モーセらしからぬ言動を取ってしまう。

 

モーセとアロンは岩の前に集会を招集し、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。(10-11)

 

モーセは、

  1. 自分たちが水を出すかのように語った
  2. 岩を二度も打った

 

主は「岩に命じる」ように言われたのであって、「打て」とは言われなかった。

おそらく二度打った間には、少しの間があったのではないか。

 

一度打った。

神は、それをご覧になり、沈黙された。

 

「ええい、もう一度」と、二度目を打った。

神は、ある意味妥協して、水を湧き出させた。

 

ここに、モーセの高ぶりと不信仰が出てしまったのだ。

 

信仰の道は、どんなに長く忠実に歩んでいても、ふとしたことで踏み外すことがある。

その意味では、信仰は貯蓄がきかず、その時々で主の前にどうあるかだ。

 

ああ、わたしは、なんと簡単に自分の力であるかのような物言いをすることだろう。

「主が聖であること」を現わしているかどうか、常に問われている。

 

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、ただあなたの御名に、栄光を帰してください。あなたの恵みとまことのゆえに。(詩篇115:1)

 

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汚れを除く水

「汚れた者が身の汚れを除かなければ、その人は集会の中から断ち切られる。主の聖所を汚したからである。汚れを除く水がその人に振りかけられなかったので、その人は汚れている。」(民数記19:20)

 

19章は、死人によって汚れた場合の取り扱いについて記している。

死人に触れると七日間汚れるとされたが(11)、その扱いは、

  1. 家の中で死んだ場合(14)
  2. 外で死んだ場合(16)

の二つに分けられた。

 

大きな違いは、家の中の場合は、中にいる者だけでなく、「口の開いた器」も汚れるとされたことだ(15)。

この汚れからきよめられるためには、「汚れを除く水」をかけられる必要があった。

 

「まだくびきを負わせたことがなく、傷のない完全な、赤い雌牛」(2)をほふり、それを焼く中に「杉の木とヒソプと緋色の撚り糸」(6)を入れる。

その灰を器に入れて新鮮な水を加えたもの(17)が、「汚れを除く水」となる。

 

この水を三日目と七日目に振りかけ、衣服を洗い、水を浴びることで、きよくなるとされた。

 

考えてみれば、「死」は「罪」の結果だ。

それに触れることだから「汚れる」のは当然だ。

 

逆に、「汚れを除く水」をかけられてきよめられることは、罪のきよめであり、死からの解放であると言える。

へブル書のことばを、見ておこう。

 

雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(ヘブル9:13-14)

 

 

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わたしがあなたへの割り当てであり

主はまたアロンに言われた。「あなたは彼らの地で相続地を持ってはならない。彼らのうちに何の割り当て地も所有してはならない。イスラエルの子らの中にあって、わたしがあなたへの割り当てであり、あなたへのゆずりである。」(民数記18:20)

 

これは、主からアロンに語られた、レビ人に対する言葉だ。

レビ人はカナンの地において、他の部族のように相続地を持つことを許されなかった。

「わたしがあなたへの割り当てであり、あなたへのゆずりである」と言われたのだ。

 

すごい言葉だが、これをレビ人は、どう受け取ったのだろうか。

 

大いなる祝福として、感謝をもって受け取った者もいただろう。

いっぽうで、おもしろくない思いで受け取った者もいたかもしれない。

 

わたしはどうだろうかと考える。

主を知っていること、主を与えられていること、永遠のいのち、罪の赦し、きよめ、天の御国、これらものがすでに与えられていることを心から喜んでいるだろうか。

 

まだまだこの世のものに未練がましい自分があることを、認めないわけにはいかない。

 

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」(マタイ16:26)

 

レビ人は、土地という目に見えるものを持たなかった。

信仰によって、ゆずりの地である主を受け取ったのだ。

 

わたしたちもまた、神の賜物を信仰によって受け取り、どれほどすばらしいものが与えられているかを考えよう。

 

割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい、私へのゆずりの地です。・・・私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。(詩篇16:6・8)

 

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彼らの不平をわたしから全くなくせ

主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者たちへの戒めのために、しるしとせよ。彼らの不平をわたしから全くなくせ。彼らが死ぬことのないようにするためである。」(民数記17:10)

 

主は、モーセを通して、各部族の族長の杖に名前を書くよう命じられた。

レビの杖には、アロンの名が書かれた。

 

「あなたはそれを、会見の天幕の中の、わたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてわたしは、イスラエルの子らがあなたがたに向かって言い立てている不平を、わたし自身から遠ざけ、鎮める。」(4-5)

 

誰が主によって立てられた人かをはっきりさせよう、ということだ。

 

その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ。レビの家のためのアロンの杖が芽を出し、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいた。(8)

 

超自然的なできごとを通して、アロンこそが主によって立てられた者であるとあきらかになった。

ここで主は、こう言われた。

 

「彼らの不平をわたしから全くなくせ。」(10)

 

不平がおもしろくないからではない。

文句を言う奴が憎たらしいからではない。

こう続いている。

 

「彼らが死ぬことのないようにするためである。」(10)

 

主への不平は、主への反抗、すなわち罪になり、その先にあるのは死だ。

これは、アダムのときから変わらない。

 

主は絶対者として権力を振るいたのではないのだ。

一人ひとりの人間を幸せにしたい、その一心なのだと思う。

 

「あなたがたが行ったすべての背きを、あなたがたの中から放り出せ。このようにして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばない――神である主のことば――。だから立ち返って、生きよ。」(エゼキエル書18:31-32)

 

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コラの事件

コラの事件で死んだ者とは別に、この主の罰で死んだ者は、一万四千七百人であった。(民数記16:49)

 

政治の魅力とは少数で多数を支配することだと、聞いたことがある。

特に男性は、この魅力に囚われやすい。

モーセの時代も、そうだった。

 

レビの子であるケハテの子イツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、モーセに立ち向かった。イスラエルの子らで、会衆の上に立つ族長たち、会合から召し出された名のある者たち二百五十人も、彼らと一緒であった。(1-2)

 

彼らの言い分は、こうだ。

 

彼らはモーセとアロンに逆らって結集し、二人に言った。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか。」(3)

 

彼らの言葉は、一見、いかにも信仰的だ。

しかし、その実態は、モーセとアロンに対するやっかみであり、人の上に立って支配したいという欲であった。

「分を超えている」のは、彼らのほうだった。

 

モーセはこれを聞いてひれ伏した。(4)

 

以前、民がモーセに激しく不平を言ったときにも、モーセはひれ伏した。

驚くべき態度だ。

彼は、売り言葉に買い言葉で、すぐに言い返したりはしなかった。

ひれ伏す姿勢は、彼の謙遜と、まず主に伺うあり方を示していると思われる。

 

最終的に、この謀反に対する神の回答は、大変厳しいものだった。

ダタンとアビラムは、家族もろとも地の裂け目に吞み込まれ、他の者たちは神からの火で焼き尽くされたのだ。

 

目撃した多くの民衆は、恐れおののいたはずだ。

そして、モーセこそ神によって立てられた指導者であると認めるかと思われた。

ところが、翌日、彼らは信じられない行動に出る。

 

その翌日、イスラエルの全会衆は、モーセとアロンに向かって不平を言った。「あなたがたは主の民を殺した。」会衆がモーセとアロンに逆らって結集したとき、二人が会見の天幕の方を振り向くと、見よ、雲がそれをおおい、主の栄光が現れた。(41-42)

 

人間の頑迷さを見る思いがする。

これに対し、主は「罰」を与え、それによって一万四千七百人が死んだ。

コラの事件で死んだ数の比ではないほどの、大人数だ。

 

モーセもアロンも、指導者になりたくてなったわけではない。

ここが、コラをはじめとする首謀者たちとの大きな違いだ。

他者を支配したいという欲望は、ことのほか根深い。

 

あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。(1ペテロ5:2-3)

 

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