みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

あなたがたも寄留者も同じ

「一つの集会として、掟はあなたがたにも、寄留している者にも同一であり、代々にわたる永遠の掟である。主の前には、あなたがたも寄留者も同じである。」(民数記15:15)

 

15章で、主は、イスラエルの民が約束の地に入ったあとに献げるささげ物について、語られた。

 

イスラエルの子らに告げよ。わたしがあなたがたに与えて住まわせる地にあなたがたが入り、食物のささげ物を主に献げるとき、・・・そのささげ物をする者は、穀物のささげ物として、油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパを、主に献げなければならない。」(2-4)

 

これに続いて、種々のささげ物について、その分量が細かく指定された。

そして、14節から「寄留している者」も同様にすべきことが告げられる。

 

「また、あなたがたのところに寄留している者、あるいは、あなたがたのうちに代々住んでいる者が、主への芳ばしい香りである、食物のささげ物を献げる場合には、あなたがたがするようにその人もしなければならない。一つの集会として、掟はあなたがたにも、寄留している者にも同一であり、代々にわたる永遠の掟である。主の前には、あなたがたも寄留者も同じである。」(14-15)

 

イスラエルの民も、寄留者も、「主の前には同じ」だと言われている。

このような箇所は、旧約においてすでに、異邦人も神の恵みにあずかることを示していると言えるのではないだろうか。

 

わたしたち日本人も、イスラエル人から見れば異邦人だ。

しかし、キリストを信じる信仰によって神の救いにあずかり、神の子とされた。

その点で、「主の前には同じ」なのだ。

 

問題は、神のひとり子を異邦人が受け入れ、肝心のイスラエル人が拒絶している現状だ。

民数記の時代に例えるなら、イスラエルの民が神を退け、寄留している者たちが神を喜んでいるようなものである。

 

自分が神の恵みを与えられたことを喜ぶと同時に、失われているイスラエルの人たちのために祈りたい。

 

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペソ2:19)

 

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いつまでわたしを侮るのか

主はモーセに言われた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。」(民数記14:11)

 

カナンの地の住民は強く、とても勝てそうもない。

そう聞いたイスラエルの民は、悲嘆にくれた。

 

すると、全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。(1)

 

興奮が興奮を呼び、恐怖が恐怖を呼ぶ集団心理をよく表している。

このとき民は、軽率なことを口にした。

 

「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。」(2)

 

結果的に、主は、この言葉どおりに彼らに報いられた。

主の約束を信頼したヨシュアとカレブのほかは、みな、荒野で死ぬことになったのだ。

 

「彼らに言え。わたしは生きている――主のことば――。わたしは必ず、おまえたちがわたしの耳に語ったとおりに、おまえたちに行う。この荒野におまえたちは、屍をさらす。わたしに不平を言った者で、二十歳以上の、登録され数えられた者たち全員である。」(28-29)

 

結局、彼らの子どもたちの世代がカナンの地に入ることになった。

それまで「四十年」と定められた。

 

「おまえたちが、あの地を偵察した日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間おまえたちは自分の咎を負わなければならない。こうして、わたしへの反抗が何であるかを思い知ることになる。」(34)

 

わたしは、今回あらためて、「四十年」の根拠を知った。

何度も読んでいたはずだが、心に留まっていなかったのだ。

そして、彼らが四十年間、不信仰を犯し続けたから(実際そうであったが)カナンに入れなかったと思い込んでいた。

 

しかし、この箇所からわかるのは、このときの不信仰のゆえに、「四十年」と定められたということだ。

不信仰は、神への「反抗」だ。

同じ轍を踏まないようにしたい。

 

では、聞いていながら反抗したのは、だれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た、すべての者たちではありませんか。神が四十年の間、憤っておられたのは、だれに対してですか。罪を犯して、荒野に屍をさらした者たちに対してではありませんか。また、神がご自分の安息に入らせないと誓われたのは、だれに対してですか。ほかでもない、従わなかった者たちに対してではありませんか。このように、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことが分かります。こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。(ヘブル3:16-4:1)

 

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必ず打ち勝つことができます

そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」(民数記13:30)

 

13章は、族長たちによるカナンの地の偵察の記録だ。

 

主はモーセに告げられた。「人々を遣わして、わたしがイスラエルの子らに与えようとしているカナンの地を偵察させよ。父祖の部族ごとに一人ずつ、族長を遣わさなければならない。」(1-2)

 

そこで、モーセは、各部族の長12名を遣わした。

 

四十日の終わりに、彼らはその地の偵察から戻った。・・・彼らはモーセに語った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこには確かに乳と蜜が流れています。そして、これがそこの果物です。ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのうえ、そこでアナクの子孫を見ました。」(25-28)

 

たしかに素晴らしい所だけど、住民は強そうだし、城壁も立派ですよ、いやぁ、あれを落とすのは無理じゃないでしょうか・・・ということだ。

 

民は、騒ぎ出した。

「おい、話が違うじゃないか。われわれは、どうなるんだ。ここまで来て野たれ死にするのか」

 

そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」(民数記13:30)

 

カレブは、純粋に信仰に立っていた。

神が与えると約束されたのだから、必ず勝てる、と。

 

彼らは偵察して来た地について、イスラエルの子らに悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。私たちは、そこでネフィリムを、ネフィリムの末裔アナク人を見た。私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」(32-33)

 

だいぶ脚色が入っている。

今も昔も、大衆を扇動するには、誇張して恐怖心をあおるのが一番だ。

 

目に見えることや世の噂を信用するか、主の約束に信頼するか、わたしたちもまた、常に問われている。

 

神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。(2テモテ1:7)

 

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だれにもまさって柔和であった

モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。(民数記12:3)

 

モーセの兄アロンと姉ミリアムの二人が、モーセに難癖をつけた。

 

そのとき、ミリアムとアロンは、モーセが妻としていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女を妻としていたからである。彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのか。われわれとも話されたのではないか。」主はこれを聞かれた。(1-2)

 

後でミリアムが皮膚の病におかされるというさばきを与えられたことから、首謀者はミリアムのようだ。

 

「ねえ、アロン。あなた、兄のくせにいまの立場でいいの?弟の言いなりじゃないの」

「ああ、まあそうだが、仕方ないではないか」

「神は私たちにも語りかけられたじゃないの。同等であってしかるべきよ。モーセったら、外国人をめとったりして、ちょっと浮かれてるんじゃないかしら」

 

と、そんな感じだったかもしれない。

そして、2節のようにモーセに詰め寄った。

 

主はこれを聞かれた。

 

とある。

主は、すべての言葉を聞いておられる。

わたしたちの言葉に混じるほんの少しの誇りの若枝を、主は聞かれる。

 

モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。(3)

 

印象的な一文だ。

当時地上にどれほどの数の人が生きていたのかわからないが、イスラエルの民だけでも二百万いたと言われる。

その「だれにもまさって柔和」というのが、主の判断だ。

 

「柔和」という言葉は、以前の新改訳では「謙遜」と訳されていた。

口語訳では「柔和」、新共同訳では「謙遜」となっている。

キリストのことばを思い出す。

 

「わたしは心が柔和でへりくだっているから・・・」(マタイ11:29)

 

パウロもまた、次のように勧めている。

 

謙遜と柔和の限りを尽くし・・・なさい。(エペソ4:2)

 

モーセは、二人に向かってひと言も発していない。

それどころか、さばきを終わらせるように姉のために祈っている。

 

モーセは主に叫んだ。「神よ、どうか彼女を癒やしてください」(13)

 

柔和で謙遜であること。

これこそが、主のしもべの最大の特長と言えるのではないか。

 

エスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」(マルコ9:35)

 

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混じって来ていた者たち

彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。」(民数記11:4)

 

ここでは、イスラエルの民の不信仰のようすが描かれる。

 

さて、民は主に対して、繰り返し激しく不平を言った。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。すると民はモーセに向かってわめき叫んだ。それで、モーセが主に祈ると、その火は消えた。(1-2)

 

民は、うつむきながらブツブツ言ったのではない。

「繰り返し激しく不平を言った」のだ。

 

なんということだろう。

あれほどの救いを体験しながら、救い出してくださった主に向かって激しく不平を言った。

 

モーセの祈りによって、いったんは主の怒りがおさまった。

が、今度は、「彼らのうちに混じって来ていた者たち」が火種となり、再び民の不平が爆発した。

 

「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」(4-6)

 

聖書はさらりと記しているが、「彼らのうちに混じって来ていた者たち」が発端となったことが引っかかる。

彼らは、出エジプトの際にイスラエル人といっしょに出てきた者たちだ。

使用人のような人が多かったのだろうか。

 

想像するに、彼らが、「ああ、あなたたちの神はひどいじゃないか。こんな荒野に連れ出して。肉もなけりゃ、魚もない。エジプトのほうがよほど幸せだったじゃないか」とけしかけたのだ。

 

わたしは、この「混じって来ていた者たち」が自分の内にもいることを思い、ぞっとする。

それは、わたしが生まれながらに持っている「肉なる人」「古い人」だ。

 

この「古い人」は言う。

「世の人を見ろ。神など信じなくても、あんなに幸せそうに生きているじゃないか。あんなに成功しているじゃないか。お前は、救われたと言いながらどうなんだ」

彼が根差しているのは、「欲望」だ。

 

主は怒りを燃やしながらも、うずらの大群を送り、民に飽きるほどの肉を食べさせられた。

そのうえで、きちんとさばきを行われた。

 

肉が彼らの歯の間にあって、まだかみ終わらないうちに、主の怒りが民に向かって燃え上がり、主は非常に激しい疫病で民を打たれた。(33)

 

わたしの内の「混じって来ていた者たち」に、よくよく注意しよう。

 

だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい。(ヘブル12:15)

 

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あなたを憎む者が、御前から逃げ去りますように

契約の箱が出発するときには、モーセはこう言った。「主よ、立ち上がってください。あなたの敵が散らされ、あなたを憎む者が、御前から逃げ去りますように。」またそれがとどまるときには、彼は言った。「主よ、お帰りください。イスラエルの幾千幾万もの民のもとに。」(民数記10:35-36)

 

10章には、「ラッパ」が登場する。

 

「銀のラッパを二本作りなさい。それを打ち物作りとしなさい。あなたはそれを用いて会衆を召し出したり、宿営を出発させたりしなければならない。」(2)

 

このラッパは、

  • 会衆や族長を招集する
  • 宿営が出発する
  • 侵略者との戦いに出る
  • 喜びの日、例祭と新月の日

などに吹かれた。

 

吹くのは、「祭司であるアロンの子ら」(8)である。

吹き手はきっと、子どもたちの憧れだっただろう。

 

出エジプトから二年目にの第二の月に、このラッパが吹かれる時が来た。

 

二年目の第二の月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った。それでイスラエルの子らはシナイの荒野を旅立った。雲はパランの荒野でとどまった。彼らは、モーセを通して示された主の命により初めて旅立った。(11-13)

 

このときから、雲に導かれて移動する旅が始まったのだ。

モーセは祈った。

 

契約の箱が出発するときには、モーセはこう言った。「主よ、立ち上がってください。あなたの敵が散らされ、あなたを憎む者が、御前から逃げ去りますように。」(35)

 

わたしたちもまた、日々の生活において、家を出て、世の務めに出向く。

そのときに、このモーセの祈りを祈るといいのではないか。

もちろん「敵」とは、何とかしてわたしたちを主から引き離そうとしている悪魔と悪霊どもである。

 

また帰宅してひと息つくときも、モーセの祈りをささげよう。

 

またそれがとどまるときには、彼は言った。「主よ、お帰りください。イスラエルの幾千幾万もの民のもとに。」(36)

 

主がともにいてくださることは、わたしたちにとって最大の安心であり、力だ。

モーセこそ、それをだれよりも実感していたにちがいない。

 

主はあなたを守る方、主はあなたの右の手をおおう陰。

昼も、日があなたを打つことはなく、夜も、月があなたを打つことはない。

主は、すべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいを守られる。

主はあなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。(詩篇121:5-8)

 

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主の命により宿営し、主の命により旅立った

彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。(民数記9:23)

 

民数記9章15~23節は、実に印象的で、美しい箇所だ。

全文を味わってみよう。

 

幕屋が設営された日、雲が、あかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって朝まで火のようであった。いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。

いつでも雲が天幕から上るときには、その後でイスラエルの子らは旅立った。また、雲がとどまるその場所で、イスラエルの子らは宿営した。主の命によりイスラエルの子らは旅立ち、主の命により宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営した。

雲が長い間、幕屋の上にとどまるときには、イスラエルの子らは主への務めを守って、旅立たなかった。また、雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。

雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らは旅立った。昼でも夜でも、雲が上れば旅立った。二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって、去らなければ、イスラエルの子らは宿営を続けて旅立たなかった。しかし、雲が上ったときは旅立った。

彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命により、主への務めを守った。(15-23)

 

ここには、主とイスラエルの民との完全な一致、調和を見ることができる。

もちろんこれは、民を率いるモーセ自身の態度を反映している。

 

本章の前半には、「過ぎ越しのいけにえ」に関する記述がある。

「第一の月の十四日の夕暮れ」に献げるよう定められたが、身内に死者が出て「汚れて」いたり、遠出のため不在だったりして献げることができない場合はどうすればよいかと、モーセは民から問われた。

このとき、モーセはこう言っている。

 

モーセは彼らに言った。「待っていなさい。私は主があなたがたについてどのように命じられるかを聞こう。」(8)

 

主の答えは一月後の「第二の月の十四日の夕暮れ」に献げよというものだったが、このときモーセは、「ああ、じゃあ、こうしとけばいいでしょう」などと軽率な返事はせず、「まず主に聞こう」という態度を取ったのだ。

 

これがモーセという人の特長だった。

まさに、雲とともに歩む歩みそのものだ。

 

主よ。

わたしもまた、まず主に聞き、主のみこころに従って行動することを、学ばせてください。

あなたのご臨在なく、自分勝手に行動することから、守ってください。

アーメン。

 

「羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。」(ヨハネ10:4)

 

 

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