いつまでわたしを侮るのか
主はモーセに言われた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。」(民数記14:11)
カナンの地の住民は強く、とても勝てそうもない。
そう聞いたイスラエルの民は、悲嘆にくれた。
すると、全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。(1)
興奮が興奮を呼び、恐怖が恐怖を呼ぶ集団心理をよく表している。
このとき民は、軽率なことを口にした。
「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。」(2)
結果的に、主は、この言葉どおりに彼らに報いられた。
主の約束を信頼したヨシュアとカレブのほかは、みな、荒野で死ぬことになったのだ。
「彼らに言え。わたしは生きている――主のことば――。わたしは必ず、おまえたちがわたしの耳に語ったとおりに、おまえたちに行う。この荒野におまえたちは、屍をさらす。わたしに不平を言った者で、二十歳以上の、登録され数えられた者たち全員である。」(28-29)
結局、彼らの子どもたちの世代がカナンの地に入ることになった。
それまで「四十年」と定められた。
「おまえたちが、あの地を偵察した日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間おまえたちは自分の咎を負わなければならない。こうして、わたしへの反抗が何であるかを思い知ることになる。」(34)
わたしは、今回あらためて、「四十年」の根拠を知った。
何度も読んでいたはずだが、心に留まっていなかったのだ。
そして、彼らが四十年間、不信仰を犯し続けたから(実際そうであったが)カナンに入れなかったと思い込んでいた。
しかし、この箇所からわかるのは、このときの不信仰のゆえに、「四十年」と定められたということだ。
不信仰は、神への「反抗」だ。
同じ轍を踏まないようにしたい。
では、聞いていながら反抗したのは、だれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た、すべての者たちではありませんか。神が四十年の間、憤っておられたのは、だれに対してですか。罪を犯して、荒野に屍をさらした者たちに対してではありませんか。また、神がご自分の安息に入らせないと誓われたのは、だれに対してですか。ほかでもない、従わなかった者たちに対してではありませんか。このように、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことが分かります。こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。(ヘブル3:16-4:1)