みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

雲は六日間、山をおおっていた

モーセが山に登ると、雲が山をおおった。主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。(出エジプト24:15-16)

 

新年あけましておめでとうございます。

今年も細々ながら、書き続けていきたいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

主はモーセに、アロン、ナダブ、アビフ、及び七十人の長老と共に、山に上るよう命じられた。

そして、彼らは神の栄光を見た。(10)

 

主はモーセに言われた。「山のわたしのところに上り、そこにとどまれ。わたしはあなたに石の板を授ける。それは、彼らを教えるために、わたしが書き記したおしえと命令である。」(12)

 

向かうのは、モーセヨシュアだ。

 

そこで、モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり、モーセは神の山に登った。彼は長老たちに言った。「私たちがあなたがたのところに戻って来るまで、私たちのために、ここにとどまりなさい。見よ、アロンとフルがあなたがたと一緒にいる。訴え事のある者はだれでも彼らのところに行きなさい。」(14)

 

モーセは残る者たちに、「戻って来るまで、ここにとどまりなさい」と言っている。

これが思いのほか長かったのだ。

 

モーセは雲の中に入って行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。(18)

 

モーセが山に登ったあと、主の臨在の象徴である雲が山をおおったものの、六日間、何事もなかった。

注目したいのは、このときのモーセヨシュア、残った者たちの心境だ。

 

山に行けば、すぐに主が語られるかのように考えていたかもしれない。

待っても1日か2日くらいだと思っていたかもしれない。

しかし、4日経っても、5日経っても、6日経っても、雲がおおうだけだった。

実に、主がお呼びになる7日目まで、山で静まる必要があったのだ。

 

じりじりと焦らなかったのだろうか。

「主よ」と大声で呼びかけはしなかったのだろうか。

「ちょっと下を見て来よう」と動かなかったのだろうか。

 

わたしなら、何らかの動きをしていたと思う。

 

主のタイミングと、わたしたちの考えるタイミングは、まったく違う。

わたしたちは、自分の都合や経験で考える。

そして何事も起きないと、「おかしい」といぶかる。

 

しかし、それはもしかすると、わたしたちに必要な「6日間」かもしれないのだ。

主を待ち、その場にとどまること。

そこで信仰が試される。

 

エスは深く悩み。もだえ始め、彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」・・・イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」(マルコ14:33-34・37-38)

 

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