みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

イスラエルの子らをエジプトから導き出せ

「今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有り様を見た。今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」(出エジプト3:9-10)

 

モーセ80歳、羊の群れを連れてホレブ山にやって来たときのことだ。

燃え尽きない不思議な炎を見た。

近寄ろうとすると、「モーセモーセ」と声がした。

 

神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」(5)

 

「聖なる地」とは何であろうか。

教会の建物ではない。

由緒ある場所でもない。

神が臨在される地だ。

 

さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。(6)

 

なんということだ。

先祖を導かれた主ご自身が、いま自分に向かって現れたのだ。

 

主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。」(7)

 

そして、冒頭のように、イスラエルの民をエジプトから導き出すよう告げられた。

当然、戸惑う。

 

モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」(11)

 

これに対し神は、こう告げる。

 

神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。」(12)

 

「あなたとともにいる」ということばは、創世記でも何度も出てきた。

これ以上、励ましになることばはない。

生けるまことの神、全能の主が、ともにおられる。

 

このあと、戸惑うモーセを口説くかのように、神は懇々と同じことを語っておられる。

 

神は、イスラエルの子らの苦しみを知っておられた。

同じように、罪と死の中に苦しんでいる、わたしたちのことを目にとめておられる。

空しさ、憎しみ、争い、叫び、落胆、絶望、恐れ、疑い、不安、死。

わたしたちは、その中でうめき苦しむ。

だれも、そんなところにいたくないのに。

 

しかし、いまや、キリストが人の姿をとって来臨され、わたしたちをそこから導き出す救いの道を開いてくださった。

それはもう、提供されている。

「広く良い地、乳と蜜の流れる地」(8)は、すでに与えられている。

 

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)

 

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