神を忘れた
今日7月12日で、このブログも始めてからちょうど一年となる。
ヨハネの福音書から書き始めて一章ずつ、一日も休まず続けることができた。
飽きやすいわたしの性格からすれば、奇跡的なことだ。
これも主の守りあればこそと、あらためて感謝したい。
聖書は汲めども尽きぬ泉そのものだ。
読むたびに新しい光が差し、力を与えてくれる。
学べば学ぶほど、これこそ真理であるとの確信が深まる。
神から与えられたこの不思議で偉大な書物を、ほとんどの日本人が、開くことも、味わうこともなく過ごしている。
なんという損失だろうか。
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。(2テモテ4:2)
このみことばを心に刻み、これからもできるかぎり綴っていきたい。
わざわざこのブログを訪問し、読んでくださる兄弟姉妹のみなさまに、このブログのためにもお祈りいただきたいと切に思う。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
彼らは、自分たちの救い主である神を忘れた。エジプトで大いなることをなさった方を。(詩篇106:21)
105篇は、主の奇しいみわざのリストであった。
そこでは、「主は~された」という記述がくり返された。
これに対し106篇は、イスラエルの民の罪のリストだ。
「彼らは~した」という記述が続いている。
つまり、この二つの詩篇は対照的な内容となっている。
彼らが何をしたのか、見てみよう。
わたしたちの先祖はエジプトで、あなたの奇しいみわざを悟らず、あなたの豊かな恵みを思い出さず、かえって、海のほとり、葦の海で逆らいました。(7)
彼らは荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた。(14)
彼らはホレブで子牛を造り、鋳物の像を拝んだ。こうして彼らは、自分たちの神の栄光を、草を食らう雄牛の像と取り替えた。(19-20)
しかも彼らは尊い地を蔑み、神のみことばを信じず、自分たちの天幕の中で不平を言い、主の御声を聞かなかった。(24-25)
彼らはまた、バアル・ペオルとくびきをともにし、死者へのいけにえを食べた。(28)
彼らは、主が命じられたのに、諸国の民を滅ぼさず、かえって、異邦の民と交わり、その習わしに倣い、その偶像に仕えた。それが彼らにとって罠となった。(34-36)
このようにイスラエルの民は主のみわざを何度も経験しながら、いつまでも不信仰で、神に対し罪を犯し続けたのだ。
わたしたちは、彼らを「愚か」と笑うことはできない。
残念ながら、同じような者だからだ。
彼らにとっても、またわたしたちにとっても救いなのは、44節からのみことばだ。
それでも、彼らの叫びを聞いたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた。主は彼らのためにご自分の契約を思い起こし、豊かな恵みにしたがって、彼らをあわれまれた。(44-45)
主は不信仰な者が心から神を求めて叫ぶなら、その叫びを聞いてくださる。
だから、何度でも立ち返ろう。
そして、主との全き一致のなかに憩いを見出そう。
ほむべきかな、イスラエルの神、主。とこえから、とこしえまで。民はみな「アーメン」と言え。ハレルヤ。(48)
イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)