心を頑なにしてはならない
まことに、主は私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊。今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。メリバでのように、荒野のマサでの日のように。(詩篇95:7-8)
95篇のこのみことばは、『へブル人への手紙』で何度も引用されている。
それくらい、わたしたちキリスト者にとって重要なみことばだ。
前半の1~6節は、創造主なる神への賛歌だ。
さあ、主に向かって、喜び歌おう。私たちの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。感謝をもって、御前に進み、賛美をもって、主に喜び叫ぼう。まことに主は大いなる神。すべての神々にまさって、大いなる王である。(1-3)
「主」は、目に見えないし、声も聞こえない。触ることもできない。
しかし、ひとは、主を喜び歌うことができる。
なんと不思議なことだろう。
地の深みは御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も御手が形造った。(4-5)
聖書の神は、万物の創造主だ。
どこかから突然降って来たのではない。
神という存在がほんとうにおられるなら、万物の創造主でなければおかしい。
はじめに神が天と地を創造した、のだ。
来たれ。ひれ伏し、膝をかがめよう。私たちを造られた方、主の御前にひざまずこう。(6)
この方は天地を造られただけではない、「私たちを造られた方」でもある。
嬉しいではないか。
わたしたちはあぶくのように偶然生まれ、偶然消えていく存在ではない。
たしかな目的と意味をもって、神によって造られたのだ。
そして、冒頭の7~8節につながる。
このような偉大な創造主、そしてわたしたち自身の創造主である方に、逆らい続けているのが人間だ。
あなたがたの先祖は、そこでわたしを試み、わたしを試した。わたしのわざを見ていたのに。(9)
「試した」ということは、信じなかった、ということだ。
主の偉大なみわざを何度も、「見ていたのに」。
四十年の間、わたしはその世代を退け、そして言った。「彼らは心の迷った民だ。彼らはわたしの道を知らない。」そのため、わたしは怒りをもって誓った。「彼らは決して、わたしの安息に入れない。」(10-11)
「心を頑なにしてはならない」とは、「心の迷った民」でいてはならない、という意味だ。
心が迷っているならば、そこに真の平安はない。
へブル書の著者は、95篇を引用したあとに、こう書いている。
信じた私たちは安息にはいるのです。(へブル4:3新改訳第三版)