新しい歌を主に歌え
新しい歌を主に歌え。全地よ、主に歌え。主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。(詩篇96:1-2)
「新しい歌」を主に歌え、とある。
新曲ということではなく、新たな思い、新鮮な喜びをもって歌え、ということだろう。
そうだ、かつて大いに祝福してくださった主は、今日も祝福しようとしておられる。
主はとこしえまで変わらないお方。
汲めども尽きぬ泉そのものだ。
過去の祝福や体験を喜ぶだけでなく、今日、新たに主を体験しよう。
主も、わたしたちも、日々新しい。
まことに、どの民の神々も、みな偽りだ。しかし主は天をお造りになった。(5)
どの神々も、どの宗教も、どの哲学も、どの思想も、人間がいなくなれば即刻消え去る。
それらは人間の想像の産物に過ぎないのだから。
しかし、まことの神は違う。
万物の創造主は、当たり前だが、人間がひとりとしていなくとも厳然と存在される。
ゆえに、まことの神は無宗教だ。
もろもろの民の諸族よ、主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。・・・聖なる装いをして、主にひれ伏せ。全地よ、主の御前におののけ。(7・9)
このお方は、イスラエルだけの神ではない。
「もろもろの民」の神であり、「全地」の主だ。
だから、こう言われている。
国々の間で言え。「主は王である。・・・」(10)
天は喜び、地は小躍りし、海とそこに満ちているものは、鳴りとどろけ。野とそこにあるものはみな、喜び踊れ。そのとき、森の木々もみな喜び歌う。主の御前で。(11-12)
天も地も、海も野も、森の木々も喜び歌う。
なんと大きなスケールだろう。
このようなみことばにふれると、自分の抱えている悩みが、いかにちっぽけなものかを思わされる。
どんなに大きな問題に見えても、永遠の世界、全地の賛美を前にすれば、取るに足らないはずだ。
主は必ず来られる。地をさばくために来られる。主は、義をもって世界を、その真実をもって諸国の民をさばかれる。(13)
最後に突然、主の来臨の約束だ。
これこそ、救いの完成だ。
さあ、主にある兄弟姉妹、元気を出そうではないか。
「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)