奇しいみわざを思い起こせ
主が行われた奇しいみわざを思い起こせ。その奇跡と御口のさばきを。(詩篇105:5)
「奇しいみわざを思い起こせ」と詩人は謳った。
2節にも、こうある。
主に歌え。主にほめ歌を歌え。そのすべての奇しいみわざを語れ。(2)
その呼びかけのとおり、この詩では、主がイスラエルの民になされたみわざを振り返っている。
特徴的なのは、「主は~された」という言い回しがくり返されていることだ。
全45節のうち、20節以上がそのような表現だ。
こうして主は飢饉を地の上に招き、パンの蓄えをことごとくなくされた。主は一人の人を彼らに先駆けて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。(16-17)
主はご自分の民を大いに増やし、彼らの敵よりも強くされた。(24)
主は、そのしもべモーセと、ご自分が選んだアロンを遣わされた。(26)
主は闇を送って、暗くされた。人々は主のことばに逆らわなかった。主が彼らの水を血に変えられたので、その魚は死んだ。(28-29)
主は銀と金を持たせて、御民を導き出された。主の諸部族の中で、よろける者は一人もなかった。(37)
主は、雲を広げて仕切りの幕とし、夜には火を与えて照らされた。民が願い求めると、主はうずらをもたらし、また、天からのパンで彼らを満ち足らせた。(39-40)
このように、主が先祖たちになされたみわざをひとつずつ思い起こしている。
わたしたちも、主が自分になされたみわざを書き出してみてはどうだろうか。
「主は~された」の型に当てはめながら。
わたしは、自分で考え、欲し、決定し、選択して、今日まで来たような気でいる。
しかし考えてみれば、すべての背後で主が導いて来られたのだ。
主を信じるとは、それを信じることにほかならない。
「主は両親を引き合わせられた」から始める必要がある。
主はわたしを母の胎から取り出された。
主はどこどこの町にわたしを置かれた。
主は〇〇に興味を持つよう導かれた。
主はこの危険からわたしを守られた。
主はわたしを教会に行くよう導かれた。
主は最善の時にわたしにご自身を啓示された。
主は妻と出合うようにされた。
主は子どもらをわたしに賜った・・・
挙げればきりがないほど、すべてにおいて主がなされたのだ。
いま、あらためてノートに書き出してみた。
そして、“図らずも”そうなったことがたくさんあると気づかされた。
特に、教会に行ったことや妻との出合いといった重要な出来事ほど、自分の思いとはまったく違う導きがあった。
主のみわざを思い起こすことは、それ自体が祝福である。
主は御民を喜びのうちに導き出された。その選ばれた民を、喜びの叫びのうちに。(43)