主は聖なる方
大いなる、恐れ多い御名をほめたたえよ。主は聖なる方。(詩篇99:3)
「主は聖なる方」、99篇にはこのことばが三度も出てくる。(3・5・9節)
主の聖さが、特に「さばき」に関連して語られる。
主は王である。国々の民は恐れおののけ。ケルビムの上に座しておられる方に。地よ、震えよ。主はシオンにおられる、大いなる方。主は、すべての国々の民の上に高くいます。(1-2)
主は「王」であり、すべてにまさって「高くいます」お方である。
主よりも高い存在は無い。
イエスさまは、こう言われた。
「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」(マタイ28:18)
このことばの意味するところをどれほどもつかめないが、大変なことを語っておられることはわかる。
王は力をもって、さばきを愛する。あなたは、公正を堅く立て、さばきと正義を、ヤコブの中で行われた。われらの神、主をあがめよ。その足台のもとにひれ伏せ。主は聖なる方。(4-5)
主は聖なる方であるがゆえに、公正をもってさばかれ、正義を貫かれる。
6節ではモーセとアロン及びサムエルにふれ、こう続ける。
われらの神、主よ、あなたは、彼らに答えられた。あなたは、彼らには赦しの神、彼らの悪しきわざには報復される方。(8)
不思議な表現だ。
主は「赦しの神」であると同時に、「報復される方」でもある。
主は聖なる方でありながら罪を赦し、聖なる方であるがゆえに悪しきわざに報復されるのだ。
わたしたちに対しても同様だ。
主は十字架の贖いにより、わたしたちの罪をすべて赦された。
しかし、わたしたちの行いに応じて報いるとも語っておられる。
「人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。」(マタイ16:27)
主のみわざは、実に奥深く、測り知れない。
われらの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。まことに、われらの神、主は聖なる方。(9)