みもとにすべての肉なる者が参ります
祈りを聞かれる方よ、みもとにすべての肉なる者が参ります。(詩篇65:2)
主のみもとに「肉なる者」が相集う。
上記は新改訳だが、口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳のいずれも「肉なる者」という訳で一致している。
そうだ、わたしたちは例外なく、「肉なる者」なのだ。
土から造られた「肉」に過ぎない。
そのような者が、神に祈り、神がその祈りを聞かれる。
なんと不思議なことだろう。
祈りは霊的な交わりであり、人間だけに与えられた賜物だ。
他のいかなる被造物も、祈ることはしない。
ひざまずいて祈る敬虔な猿を、見たことがない。
しかし、残念ながら、人はみな、神に背き、罪の中にある。
数々の咎が私を圧倒しています。(3)
へブル書にはこうある。
神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。(へブル4:13)
すべてを見通される神の前で、わたしたちは顔を上げることができない。
まさに「咎が私を圧倒」する。
ところが詩人は、驚くべきことを告げる。
しかし、私たちの背きをあなたは赦してくださいます。(3)
神は、赦さない権威をお持ちのはずだ。
赦さない決定ができたはずだ。
しかし、「赦してくださいます」。
へブル書の著者も、続けてこう記した。
さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。(へブル4:14)
キリストは、わたしたちの罪のために、わたしたちの代わりとなって十字架で処刑された。
ゆえに、わたしたちは、もうさばかれることがない。
わたしたちが赦されたのは、神が罪を、「いいよ、いいよ」と見逃されたからではなく、十字架上のキリストにおいて断罪されたことによる。
神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(2コリント5:21)
詩人は続ける。
幸いなことよ、あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住む人は。私たちは、あなたの家の良いもの、あなたの宮の聖なるもので満ち足ります。(4)
みもとに来ることができたのは、わたしたちが信仰深いからではない。
神が選び、近寄せられたからだ。
「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。」(ヨハネ6:44)
整理しよう。
- わたしたちは、「肉なる者」に過ぎない
- しかも、「咎が圧倒して」いる
- しかし、神は私たちの背きを「赦して」くださる
- わたしたちが神のみもとに来れたのは、神が「選び、近寄せ」てくださったからだ
いま、わたしたちはすでに信仰によって、神の「大庭に住む人」だ。
神の「家の良いもの」、「聖なるもの」で満ち足りている。
このすばらしい事実に、もっと目が開かれるよう、祈りたい。
私たちの救いの神よ。あなたは恐るべきみわざで、義のうちに答えられます。あなたは、地のすべての果て、遠い大海の信頼の的です。(5)