みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

あなたの救いを言い表します

私は、あなたの義を心の中におおい隠さず、あなたの真実とあなたの救いを言い表します。私は、あなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しません。(詩篇40:10)

初代教会の兄弟たちは、イエスが約束された救い主であることを、聖書(旧約聖書)の中に熱心に調べた。

そして、詩篇40篇が目に留まった。

 

あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物を、あなたは、お求めになりませんでした。そのとき、私は申し上げました。「今、私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。わが神よ、私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。」(6-8)

 

へブル書の著者は、この箇所を引用した。

 

雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物を、あなたは、お喜びにはなりませんでした。そのとき、わたしは申しました。『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。』」・・・このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。(へブル10:4-7・10)

 

ダビデの言葉を、へブル書ではキリストによるものとしている。

このような読み方ができるのも、旧約聖書を読むおもしろさだ。

 

このとおり、40篇は重要な“メシア預言”だ。

したがって、ここに語られている「救い」は、キリストによる「救い」でもあるといえる。

 

私は切に、主を待ち望んだ。主は私に耳を傾け、助けを求める叫びを聞いてくださった。滅びの穴から、泥沼から、主は私を引き上げてくださった。私の足を巌に立たせ、私の歩みを確かにされた。(1-2)

 

死の穴から、罪の泥沼から、引き上げてくださるのは主だけだ。

 

数えきれないわざわいが私を取り囲んでいるのです。私の咎が襲いかかり、私は何も見ることができません。それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。(12)

 

罪からの救いを自分の努力によって達成しようとするのは、洪水を素手で押し戻そうとするようなもので、徒労に終わる。

必要なのは、次の態度だ。

 

主よ、みこころによって私を救い出してください。主よ、急いで私を助けてください。(13)

 

ダビデは、「急いで」と祈った。

敵の攻撃、罪の誘惑が来たときに、彼自身が「急いで」祈ったということではないだろうか。

 

私は苦しむ者、貧しい者です。主が私を顧みてくださいますように。あなたは私の助け、私を救い出す方。わが神よ、遅れないでください。(17)

 

この言葉は、慰めだ。

救いの喜びを賛美する者ではあるが、生身の人間として、「苦しむ者、貧しい者」であることに変わりはない。

だからこそ、「私の助け」である主を必要とする。

急いで、主の御名を呼び求めよう。

 

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:16)

 

 

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