あなたとともにいる旅人
主よ、私の祈りを聞いてください。助けを求める叫びに耳を傾けてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人、すべての先祖のように寄留の者なのです。(詩篇39:12)
39篇は、38篇の続きのような詩篇だ。
38篇では、敵の嘲りに対して「聞こえない人のように」(詩篇38:13)黙して抗さず、という態度を取った。
39篇も、こう始まる。
私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないように。口に口輪をはめておこう。悪しき者が私の前にいる間は。私はひたすら黙っていた。良いことにさえ沈黙した。そのため私の痛みは激しくなった。(1-2)
ダビデは「悪しき者」の前で、口輪をはめたように黙った。
間違っていない、正しい「良いこと」でさえも口から発しなかった。
これはふつう、できることではない。
相手の言い分が理不尽であれば、なおさらだ。
あのヨブでさえ、友人たちから非を責められたとき、自らの潔白を主張して言い返した。
しかし、その結果、彼は自分を義とする過ちに陥ったのだ。
「良いこと」ですら、言い返すなら、「舌で罪を犯す」ことになりうると、ダビデは知っていた。
とはいえダビデも、黙っていることに耐えられなくなる。
心は私のうちで熱くなり、うめきとともに、火が燃え上がった。そこで私は自分の舌で言った。(3)
驚くのは、このあとだ。
耐えきれずに発した彼の言葉は、敵に対してではなかったのだ。
主よ、お知らせください。(4)
ダビデは相手ではなく、主に対して口を開いた。
ダビデがことのほか主に愛され祝された秘訣が、ここにあると思う。
彼は何を祈ったか。
私の終わり、私の齢がどれだけなのか。私がいかにはかないかを知ることができるように。ご覧ください。あなたは、私の日数を手幅ほどにされました。あなたの御前では、私の一生はないも同然です。人はみなしっかり立ってはいても、実に空しいかぎりです。(4-5)
ヨブのように自分がいかに正しいかを訴えるのではなく、「私がいかにはかないかを知ることができるように」と願っている。
なんという謙遜さだろう。
そして、自分の人生の日数も主の「手幅ほど」に過ぎない、それほど自分は空しい存在だと言う。
今日、“人生百年時代”といわれる。
しかし、百年だろうと90年だろうと、わたしたちの地上人生は主の「手幅ほど」だ。
あっという間に過ぎ去り、戻ってはこない。
それほど空しく、無力な者が、自分を義とし、何かを知っているかのように傲慢に語るのは、愚かでしかない。
そんな愚かさを、日々おかしているのが、わたしたち人間ではなかろうか。
主よ、今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。(7)
主から離れたなら、いっさいは空しい。
どんなに栄えようと、蓄えようと、根本的に空しい。
主につながるときだけ、わたしたちは空しさから解放される。
私はあなたとともにいる旅人、すべての先祖のように寄留の者なのです。(12)
“人生は旅である”とはよくいわれることだが、主を知る者の旅は孤独な旅ではない。
「あなたとともにいる旅人」だからだ。
主から離れて空しい旅をするのか、主とともに実りある旅をするのか、この違いはとてつもなく大きい。
聖書は、人生は空しいものだ、それ以上を求めず、それを悟れ、とは言っていない。
そうではなく、その空しさは神から離れていること、すなわち罪の結果であり、キリストを通して神のもとに立ち返るとき、罪赦されて空しさから解放される、と教えている。
世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。(1ヨハネ2:17)