みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

苦しみによって従順を学び

キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。(ヘブル5:8-10)

 

4章では、「神の子イエスという偉大な大祭司」(ヘブル4:14)がおられるのだから、「大胆に恵みの御座に近づこう」(同16)と、著者は語りかけた。 

5章ではさらに、この方はふつうの大祭司ではなく、「メルキゼデク」に比するほどの偉大な大祭司だと示している。

 

その偉大な大祭司は、「涙」と「苦しみ」の人でもあった。

7節には、こうある。

 

キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。(7)

 

 キリストは・・・様々な苦しみによって従順を学び・・・(8)

 

先日もふれたが、「従順」は現代人の辞書から消えかかっている言葉だ。

しかし、神のひとり子イエスさまは、「従順」を学ばれた。

これは驚くべきことだ。

さらに驚くべきは、その学びは「様々な苦しみ」をとおして行われたということだ。

 

多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。(ヘブル2:10)

 

何がどう「ふさわしいことであった」のか、わたしにはわからない。

ただ、これだけは言えるのではないか。

エスさまが苦しみをとおして「従順」を学ばれたのなら、わたしたちも同様である、と。

 

聖書は静かで平穏な生活をすすめているが、それでも「苦難」はやって来る。

自分のことだけならまだしも、たとえば愛するわが子の苦しみなどは、親にとっても胸が張り裂けそうな苦しみであろう。

 

いかなる苦しみであれ、わたしたちはそれをとおして「従順」を学ぶ。

言葉を換えれば、「へりくだる」ことを学ぶ。

 

力づけられるのは、先にイエスさまがこの道を通られたことだ。

 

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。(ヘブル4:15)

 

主の御足跡に従おう。

主は、かならず見守っていてくださる。

 

このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。(1ペテロ2:21)

 

 

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