力強い励ましを受けるため
それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはありません。(ヘブル6:18)
1章のところでも書いたが、『ヘブル人への手紙』は"励ましの書"だ。
信仰の道を踏み外すことなく最後まで歩み通し、約束の地にまで進もうではないか、という励ましの言葉で満ちている。
上の聖句には、「力強い励まし」という、ヘブル書のテーマそのものの言葉がある。
その「力強い励まし」の根拠は、「約束と誓いという変わらない二つのもの」、すなわち神のみことばだ。
これもまた、ヘブル書の基本的スタンスだ。
金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。ですから、私たちは確信をもって言います。「主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。」(ヘブル13:5-6)
「確信」の根拠は何か?
「主ご自身が・・・言われたからです」。
主のみことばだ。
自分の感情や、考えではない。
そんな気がするからでも、納得がいくからでもない。
主が言われたからだ。
神は、アブラハムに約束する際、ご自分より大いなるものにかけて誓うことができなかったので、ご自分にかけて誓い、「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす」と言われました。(13-14)
神の誓い、だ。
人間の誓いとは、次元が違う。
くつがえされるはずがない。
私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。(19)
著者は、2章でこう言っていた。
こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。(ヘブル2:1)
「錨」は押し流されないためのものだ。
そしてそれは、神のみことばにほかならない。
みことばに心を留めよう。
それによって「力強い励まし」を受けよう。
みことばこそが、「安全で確かな、たましいの錨」なのだから。
また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。(2ペテロ1:19)