ご自分を求める者には報いてくださる方
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(ヘブル11:6)
11章は、「信仰の章」としてよく知られる。
「信仰者列伝」ともいうべきすばらしい章で、数々の信仰者たちが列挙され、彼らの信仰に倣おうではないかという励ましのことばとなっている。
天地創造から始め、アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ラハブ・・・と、ていねいに時系列で述べられている。
著者はきっと、学者肌の几帳面な人だったのだろう。
さらに、「信仰によって」(英語では「by faith」)という言葉が23回も使われている。
その中の、エノクに関する記述に注目してみたい。
信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていたのです。(5)
これは、次の創世記の記事に由来する。
エノクの全生涯は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。(創世記5:23-24)
他の先祖たちについては「彼は死んだ」と書かれているのに、エノクだけは「神が彼をとられた」「いなくなった」とあるのだ。
エノクは神とともに歩んだ。
この短いことばに、ヘブル書の著者は、「彼が神に喜ばれていた」根拠を見ている。
そして、冒頭にあげた6節につながる。
神に喜ばれる信仰とは、どんな信仰だろうか?
それは、「神がご自分を求める者には報いてくださる方であること」を信じる信仰だ。
ここで注意したいのは、「ご自分"に"求める者」ではなく、「ご自分"を"求める者」とあることだ。
似ているが、大きく異なる。
あなたは、「神に求める人」だろうか、それとも「神を求める人」だろうか。
神が喜ばれ、また報いてくださるのは、「神ご自身を求める者」なのだ。
エノクは、神ご自身を求めた。
それが、「エノクは神とともに歩んだ」ということばに凝縮されている。
しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。(16)
「故郷」は、理屈抜きで帰りたくなる場所であり、もっとも落ち着く場所だ。
そこでは、この地上では目に見えない神ご自身が満ち満ちておられる。
天の故郷に迎えられるそのときまで、エノクのように神とともに信仰によって歩もうではないか。
信仰によって、彼(モーセ)は王の憤りを恐れることなくエジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、忍び通したのです。(27)
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて、渇いています。(詩篇42:1-2)