訓練として耐え忍びなさい
訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。(ヘブル12:7)
兄弟姉妹たちは、このとき何らかの苦難に遭遇していた。
それは激しい迫害だったかもしれないことが、3・4節から推察される。
あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。(3-4)
あるいは、経済的な問題だったかもしれないし、流行り病だったかもしれない。
いずれにせよ、辛く苦しい状況にあった。
その彼らに対し、著者は聖書(旧約聖書)のことばを紹介する。
「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」(5-6)
だから、「訓練として耐え忍びなさい」と。
何のための訓練か?
肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。(10)
「霊の父の聖さにあずからせる」ためだと言われている。
もし、何でも自分の願い通りになり、何一つ不自由ない生活になったなら、わたしは間違いなく傲岸不遜な人間になると思う。
いろんな辛さ、苦しさ、悩みがあるから、必死で主を見上げ、祈ることができるのは事実だ。
訓練の結果はどうなるか?
すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。(11)
兄弟たちの中には、「こんなことならイエスを信じないほうがよかった。何もいいことはないじゃないか」と、信仰から離れようとする者もあっただろう。
著者は何とかして、キリストの救いが完全であること、揺るぐことのない御国が備えられていることを伝え、彼らを信仰の道に立たせようとする。
ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。(12)
このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。(28)
いまコロナ禍の中で、キリストにある兄弟姉妹もまた苦難にあるひとが多いと思う。
わたしも例外ではない。
すべての背後に主がおられ、いっさいが主の御手の中にあることを信じて、主の前に静まろう。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。(2)