上にあるものを求めなさい
こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。(コロサイ3:1-2)
人が罪の中に死んでいるとき、その思いは地上のことだけだ。
その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。(ピリピ3:19)
キリストを信じ、そのいのちによってよみがえらされると、天に対して目が開かれる。
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。(ピリピ3:20)
霊的成長とは、地に支配されていた心が、徐々に天に満たされていくことだ。
そして、天によって満たされた心は、おのずから地のものから解放される。
ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。(5)
律法主義の罠は、天に満たされることなく、地に属する肉の力で地のものを克服しようとするところにある。
それは泥水をきよめようとして泥を掻き上げるようなもので、徒労に終わる。
これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。(コロサイ2:23)
イエスさまは、「天」という言葉をよく口にされた。
「天の御国」や「天の父」についても、多くのことを教えられた。
イエスさまはまさしく、天から遣わされた者として地上を歩まれたのであり、その心はつねに天によって満ちておられた。
このイエスさまの歩みが、御霊をとおして、わたしたちにも実現することを神は願っておられると言えるのではないか。
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。(15)
ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。(17)
もちろん、自分の努力や決心によってできることではない。
だからこそ、上にあるものを求め、イエスさまのいのちに満たされよう。
あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。(3)
「御国が来ますように。 みこころが天で行われるように、 地でも行われますように。」(マタイ6:10)