みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

本体はキリストにあります

こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。(コロサイ2:16-17)

 

鳥のように大空を飛び回りたい・・・。

だれもが、そう願う。

鳥の"道"は、われわれ人間のそれとは、まったく異なる。

広く、自由で、縦横無尽だ。

 

仮に、だ。

鳥が飛ぶことをやめ、地上を歩き回るとしたらどうだろう。

そこの角を右に曲がって、おっとこっちは行き止まりだ、おお信号が変わる、走るのはしんどいななどとやっていたら、まことにお疲れさんだ。

ほんとうは、飛べるのだから。

 

さまざまな戒め、律法、文字と取っ組み合うようなあり方は、地上を歩く鳥のようなものではないだろうか。

聖書は、それらは「影」だという。

かつては、「影」しか知らなかった。

しかしいまは、その「影」の「本体」であるキリストが来られた。

もはや「影」を相手にする必要はなく、「本体」であるイエス・キリストによって、新しく歩むことができる。

鷲のように翼をかって上ることができる。

 

このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。(6)

 

キリストにある歩みは、空を舞うように、自由で、伸びやかだ。

 

冒頭の聖句とよく似たみことばが、ローマ書にある。

 

「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。(ローマ13:9-10)

 

さまざまな律法の要求は、言ってみれば、「愛」の影だ。

本体は、「愛」にある。

そして、言うまでもなく、「愛」とは「イエス・キリスト」だ。

 

キリストは、わたしたちに新しいいのちを与え、地上の文字から解き放ってくださった。

キリストの愛によって、自由に大空を舞おう。

 

もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。(20-21)

 

 

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