御霊によって歩みなさい
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。(ガラテヤ5:16)
律法によって義と認められようとする生き方は、不真面目ではないかもしれない。
しかしパウロは、こう断言した。
律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。(4)
さらに、次のように書いた。
キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。(6)
兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。(13)
キリストは解放してくださった、大事なのは律法にではなく、愛に生きることなのだ、と。
そして、冒頭の言葉につながる。
御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。(16)
この5章をみると、「自由、御霊」と「律法、肉の欲望」が、それぞれセットで論じられている。
くり返すが、律法に生きるのは、一見すると、けっして不真面目には見えない。
しかし、そこは「肉」の世界であり、「罪」の泥沼の世界なのだ。
御霊に導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色・・・(18-19)
「律法の下」で生きるとき、わたしたちは「肉」と「罪」のとりこになる。
しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。(ローマ7:8-10)
医学用語に、「易(い)疲労性」とか「易刺激性」という言葉がある。
ちょっとしたことで疲れやすかったり、ささいなことでイライラしたり怒ったりする状態のことだ。
それになぞらえて言えば、罪人であるわたしたちは「易罪性」を持っている存在だ。
ほんの少しのきっかけで、かんたんに罪を犯す。
そして律法は、人を罪から守るのではなく、むしろそのきっかけになってしまうことに、パウロは気づいた。
恐ろしいことだ。
律法に真剣に取り組むほど、罪の支配下にはまっていく。
なぜなら、その中心にあるのはわたしたちの「肉」であり、「行い」であるからだ。
キリストはそのような律法の下から、わたしたちを解放してくださった。
これは、もう律法など破っても構わないんだということでは、もちろんない。
そうではなく、律法の要求をはるかに超えて歩むことができるということだ。
それが、「御霊による歩み」だ。
主よ。
御霊によって歩むとはどういうことなのかを、頭ではなく心で理解できるようにお助けください。
アーメン。
律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。(14)
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。(22-23)