みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

圧倒的な勝利者

しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。(ローマ8:37)

 

前章の終わりに、「私は本当にみじめな人間です」(7:24)と悲痛な叫びをあげたその人が、本章では「私たちは圧倒的な勝利者です」と歓喜の歌を歌っている。

ここにこそ、福音の奥義があるにちがいない。

 

鍵になる言葉は「御霊」だ。

 

それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。(4)

 

「肉」という概念が、登場してくる。

「生まれながらの自我」とでもいおうか。

リビングバイブルでは、「古い罪の性質」となっている。

 

肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。(5)

 

普段わたしの考えていることは、どちらだろう。

大部分が「肉に属すること」であるような気がする。

 

エスさまは御霊について、あるときこう言われた。

 

「御霊はわたしの栄光を現されます。」(ヨハネ16:14)

 

御霊の働きはつねに、主イエスさまの栄光につながっている。

 

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(1コリント10:31)

 

「肉」は、どうもがいても自分中心だ。

そこから逃れ出ることはできない。

それが、パウロのいう「罪と死の律法(原理)」(2)である。

 

「御霊」によってはじめて、わたしたちは自分中心の原理から解放され、神中心の「いのちの御霊の律法(原理)」に生きることができる。

 

ときに喜びを失い、「不幸」を感じるのは、きまって神中心ではなく自分中心になっているときだ。

「御霊」ではなく「肉」に支配されているときだ。

 

肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。(6)

 

パウロは、御霊に属する重要な言葉についてもふれている。

 

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。(15) 

 

わたしたちは御霊によって、イエスさまと同じように、神を「アバ、父」(とうちゃん)と呼ぶことができる。

上目遣いでご機嫌をうかがう必要はない。

上目遣いや、はすに構えた態度は、「肉」の入り込む隙間となる。

 

まっすぐに見上げ、遠慮なく、大胆に、「とうちゃん」と呼ぼうではないか。

 

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(32)

 

 

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