みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

人の願いや努力によるのではなく

ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ9:16)

 

『ローマ人への手紙』も、ちょうど半分まできた。

ここで、ひとつクイズをやってみよう。

即答できた人は、そうとうな“マニア”だ。

 

Q;「テルティオ」(またはテルテオ)という人物は、何をした人か?

 

「だれ、それ?」という人がほとんどかもしれない。

かく言うわたしも、さきほど知ったばかりだ。

 

A;正解は、「『ローマ人への手紙』を筆記した人」だ。

 

この手紙を筆記した私テルティオも、主にあってあなたがたにごあいさつ申し上げます。(ローマ16:22)

 

おそらくパウロは、一言ずつ、思慮深く、静かに語ったことだろう。

その宝石のような言葉の滴を一滴も漏らすまいと、テルティオも神経を張りつめて書いたにちがいない。

 

パウロは、語りながら、ときに涙したのではなかろうか。

8章の最後では、「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(8:39)という言葉を、喜びと感謝の涙にむせびながら語ったのではと、わたしは思う。

 

しかし、つづく9章では、それが悲しみの涙に変わる。

 

私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。(2-3)

 

 ここから11章にかけて、パウロの「イスラエル論」が展開される。

まずパウロは、イサクやヤコブを引き合いに出しながら、神の約束、神の選び、について論じる。

 

アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。むしろ、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」からです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもが子孫と認められるのです。(7-8)

 

ここに、

  • 肉の子ども
  • 約束の子ども

という対比がある。

 

「肉の子ども」とは、女奴隷ハガルによって得たイシュマエルであり、人間の策によって生まれた。

「約束の子ども」とは、妻サラによって得たイサクであり、神の約束によって与えられた。

 

女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由の女の子は約束によって生まれました。(ガラテヤ4:23)

 

「肉」の世界は人間発であり、その土台は人間の願いや努力や行いだ。

「約束」の世界は神発であり、その土台は神の選びやあわれみやみことばだ。

 

いうまでもなく、信仰による歩みは、神の約束、神のみことばに信頼して歩む。

「はじめに願いありき」ではなく、「はじめに約束ありき」なのだ。

 

それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。(30)

 

わたしたちが信仰を得たのも、「あわれんでくださる神による」。

何一つ、自ら誇れるものはない。

ただ、感謝あるのみだ。

 

そして、信仰にますます進んでいくこともまた、願いや努力ではなく、あわれんでくださる神による。

信仰による歩みの世界は、「肉」の世界とはまったく相容れない世界といえる。

 

福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(1:17)

 

 

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