アブラハムの神の民
国々の民の高貴な者たちは集められた。アブラハムの神の民として。(詩篇47:9)
聖書が何度読んでも飽きない理由の一つは、あの分厚さにあるのではないだろうか。
10ページ程度であれば、頑張れば暗記できるかもしれないが、なにせあれだけの分量だ。
読むたびに、はじめて目にするようなことばに出会う。
上のことばも、その一つ。
47篇は、神は全地と国々を治める王であり、われらの国に国々を従属させられる、だからほめ歌え、という内容だ。
まことに、いと高き方主は恐るべき方。全地を治める、大いなる王。国々の民を私たちのもとに、もろもろの国民を私たちの足もとに従わせられる。(2-3)
神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。(8)
ユダヤ主義的な読み方をすれば、主はイスラエルの味方であり、国々をイスラエルに従わせられる、という意味になる。
しかし、キリストの福音的な読み方をすれば、イエスに対する信仰により救われた者たちを、主は特別に祝福されるというようにも読める。
冒頭の9節では、「アブラハムの神の民」という言葉が出てくる。
これも、ユダヤ主義的にとればイスラエル民族であり、福音的にとればキリストを信じる者たちとなる。
ちなみに、この箇所は他の訳ではこうなっている。
諸国の民から自由な人々が集められアブラハムの神の民となる。(新共同訳)
もろもろの民の君たちはつどい来て、アブラハムの神の民となる。(口語訳)
もろもろの民の諸侯(きみたち)はつどひきたりてアブラハムの神の民となれり。(文語訳)
前半は少々異なるが、後半は「アブラハムの神の民」で一致している。
パウロは手紙の中で、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと論じた。
そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。(ローマ4:16)
「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。(ガラテヤ3:6-7)
パウロの言葉は当時のユダヤ社会において命を賭けるほどの爆弾発言であったが、これこそ彼に与えられた上からの光、主の啓示であった。
新約時代に信仰により救われたわたしたちは、「アブラハムの神の民」がわたしたち自身であると確信でき、だからこそ心からの賛美をささげることができるのだ。
ほめ歌を歌え。神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。私たちの王にほめ歌を歌え。まことに神は全地の王。ことばの限りほめ歌を歌え。(6-7)