両刃の剣があるように
彼らの口には、神への称賛があり、彼らの手には、両刃の剣があるように。(詩篇149:6)
「神への称賛」と「両刃の剣」、この二つが「敬虔な者たち」の口と手にある。
興味深い表現だ。
ハレルヤ。新しい歌を主に歌え。敬虔な者たちの集まりで、主への賛美を。(1)
149篇はこのような賛美で始まる。
その根拠は、主の救いだ。
主はご自分の民を愛し、貧しい者たちを救いをもって装われる。(4)
だからこそ賛美せよ、と。
敬虔な者たちは栄光の中で喜び踊れ。自らの床の上で高らかに歌え。(5)
そして、冒頭の6節につながる。
主を信頼する「貧しい者たち」「敬虔な者たち」は、すでに主の救いにあずかっている。
と同時に、いまだ戦いの中にある。
だから、「剣」を手離してはならない。
しかし、この「剣」は勝利を得るためのものではなく、すでに得た勝利を明らかにするためのものだ。
それは国々に復讐し、もろもろの国民を懲らしめるため、彼らの王たちを鎖に、彼らの貴族たちを鉄のかせにつなぐため、また書き記されたさばきを、彼らの間で行うため。これは、主にある敬虔な者すべての誉れである。ハレルヤ。(7-9)
神と神の民への反逆者たちを、懲らしめ、捕らえ、さばく「剣」だ。
わたしたちの将であるキリストは、すでに敵将である悪魔を打ち砕き、勝利を得られた。
その意味で、戦いは完了した。
わたしたちは、勝利したのだ。
敵にできることは、わたしたちがまだ勝利を得ていないかのように信じ込ませることだけだ。
悪魔ははじめから、“嘘”を武器としている。
悪魔が漂わせてくる“嘘”を、両刃の剣で切り裂こう。
わたしたちは、主にあってすでに勝利しているのだから。
イスラエルは、自らの造り主にあって喜べ。シオンの子らは、自らの王にあって楽しめ。踊りをもって、主の御名をほめたたえよ。タンバリンと竪琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。(2-3)
「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)