主は私の救いとなられた
「主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。」(出エジプト15:2)
主の救い、主の勝利を体験したイスラエルの民は、賛美の歌を歌った。
そのとき、モーセとイスラエルの子らは、主に向かってこの歌を歌った。彼らはこう言った。「主に向かって私は歌おう。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。」(1)
人間にできる最高のわざは、まことの神に向かって賛美の歌を歌うことではないだろうか。
ほめ歌を歌え。神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。私たちの王にほめ歌を歌え。まことに神は全地の王。ことばの限りほめ歌を歌え。神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。(詩篇47:6-8)
歌を喜ぶのではない。
神を喜ぶのだ。
それこそが、救われた者の最高のわざである。
「主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。・・・主よ、あなたの右の手は力に輝き、主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。あなたは大いなるご威光によって、向かい立つ者たちを打ち破られる。・・・あなたが風を吹かせられると、海は彼らをおおい、彼らは鉛のように、大いなる水の中に沈んだ。」(4-10)
主語は「主」であることに留意しよう。
主の救いを体験した者は、「私」を主語にすることができない。
「私」は何もしておらず、すべて「主」がなさったからだ。
ダビデもこう歌っている。
滅びの穴から、泥沼から、主は私を引き上げてくださった。私の足を巌に立たせ、私の歩みを確かにされた。主はこの口に授けてくださった。新しい歌を、私たちの神への賛美を。多くの者は見て恐れ、主に信頼するだろう。(詩篇40:2-3)
わたしたちが救われたのは、ただ恵みによる。
イスラエルの民が、海に道をつくるために何もしなかったのと同じだ。
わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストはわたしたちのために死んでくださった。
救いにふさわしい取り柄など、何一つない者のために。
海から上がったイスラエルの民のように、主に感謝と賛美をささげよう。
詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。(エペソ5:19)