みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい

モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」(出エジプト14:13-14)

 

イスラエルの民が去ったと聞いて、ファラオはまたも心を頑なにし、軍勢を率いてあとを追った。

 

エジプト人は彼らを追った。ファラオの戦車の馬も、騎兵も軍勢もことごとく、バアル・ツェフォンの前にあるピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。(9)

 

目の前は海、うしろからはエジプトの大軍。

イスラエルの民は、絶体絶命の状況だ。

 

ファラオは間近に迫っていた。イスラエルの子らは目を上げた。すると、なんと、エジプト人が彼らのうしろに迫っているではないか。イスラエルの子らは大いに恐れて、主に向かって叫んだ。(10)

 

「ああ、われわれも、子どもたちも、みなここで殺されるのだ、主よ!」と彼らは叫んだ。

 

そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。」(11)

 

皮肉たっぷりの批判を、モーセに浴びせた。

モーセは、彼らに告げた。

 

「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」(13)

 

「もう終わりだ」とか、「まったく先が見えない」と思うことがある。

信仰などどこかに置き忘れ、99%、これまでの経験や自分の見える範囲だけを見ている。

 

しかし、考えてみれば、主が行き詰まることなどあり得ない。

これから先、主に新しいことが何もできないということはないはずだ。

創世記からここまで、どれだけ次々とすばらしいストーリーを見てきたことか。

主の蔵は無尽蔵だ。

 

自分のちっぽけな頭で限界を設定し、勝手に見限ってはいないか。

「おとうさん、あなたはいままではいろいろできましたが、もうそろそろ限界ですね」と言っているようなものだ。

 

モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。(21-22)

 

海が分かれて壁になり、民がその中を進んだ、などという話は聞いたことがない。

しかし、歴史上一度だけ、それが起きた。

神の子が人類の身代わりとなって十字架で死に、三日後に復活した、などという話は聞いたことがない。

しかし、歴史上一度だけ、それが起きた。

 

モーセが手を海に向けて伸ばすと、夜明けに海が元の状態に戻った。エジプト人は迫り来る水から逃れようとしたが、主はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。水は元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残った者は一人もいなかった。(27-28)

 

主が戦ってくださる。

わたしは、ただ黙って信頼し、主の救いを見よう。

 

「先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」(イザヤ43:18-19)

 

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