みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

あなたの手を天に向けて伸ばせ

そこで主はモーセに言われた。「あなたの手を天に向けて伸ばせ。そうすれば、エジプト全土にわたって、人にも家畜にも、またエジプトの地のすべての野の草の上にも、雹が降る。」(出エジプト9:22)

 

心を頑なにするファラオ、さらなる災害がエジプトを襲う。

ブヨとアブの災害につづいたのは、家畜の疫病だ

イスラエルの家畜は一頭も死なず、エジプトの家畜だけが死んだ。(6)

 

つぎは、ほこりによる腫れもので、ここでとうとう人間に直接害が及ぶ。

 

主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはファラオの前で、それを天に向けてまき散らせ。それはエジプト全土にわたって、ほこりとなり、エジプト全土で人と家畜に付き、うみの出る腫れものとなる。」それで彼らは、かまどのすすを取ってファラオの前に立ち、モーセはそれを天に向けてまき散らした。すると、それは人と家畜に付き、うみの出る腫れものとなった。(8-10)

 

続いての災害は、冒頭にあるように、雹だ。

今度は人の命が犠牲となる。

ファラオが頑なになればなるほど、災害は厳しさを増していく。

 

モーセが杖を天に向けて伸ばすと、主は雷と雹を送ったので、火が地に向かって走った。こうして主はエジプトの地に雹を降らせた。(23)

 

さすがのファラオもたまりかね、「私が間違っていた」とうわべだけだが非を認めて、モーセに助けを求める。(27-28)

 

モーセはファラオのもとを去り、町を出て、主に向かって両手を伸べ広げた。すると雷と雹はやみ、雨は地に降らなくなった。(33)

 

さて、ここでちょっと目を向けたいのは、このような主のみわざを行っているときのモーセの心理だ。

彼は、すすを散らしたり、天に向けて手を差し伸べたりしながら、どんな気持ちだったのだろうか。

 

きっと、つぎにようには思わなかっただろう。

「やはり私は主の器だから、主と一つになってこうして不思議なわざをなすことができるのだ。どうだ、主もすごいが、私もたいした者ではないか」と。

こんな馬鹿なことを詮索するのは、もしわたしがモーセの立場だったら、そう考えたに違いないと思うからだ。

 

もちろんモーセは、そんなことはない。

驚くべき事象を目にしながら、ただただ主を恐れる思いだったろう。

 

そんなモーセでも、この先の道中でただ一度だけ、主のわざを自らのわざであるかのように言動を取った。

そのせいで、彼はカナンの地に入ることができなくなる。

それほどまでに、主の栄光をかすめ取ることは大きな罪なのだ。

 

「わたしが主である」とは、いっさいを成しておられるのは主だということだ。

ああ、わたしはなんと多くのことを、自分のわざであるかのように思い上がっていることだろう。

 

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(1コリント3:7)

 

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