みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

ファラオの心は頑なになり

彼らがそれぞれ自分の杖を投げると、それは蛇になった。しかし、アロンの杖は彼らの杖を呑み込んだ。それでもファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。(出エジプト7:12-13)

 

モーセとアロンは、神から告げられて、再びファラオの前に立った。

 

彼らがファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。(7)

 

二人とも高齢だった。

しかし、神がともにおられるという確信に満ちた彼らは、力強く見えたことだろう。

 

アロンが杖を投げると、それは蛇になった。

しかし、ファラオが呼んだ呪術者も同じことをした。

そして、アロンの杖が彼らの杖を呑み込んだ。

 

ファラオの前で行った、最初の不思議なわざだ。

「それでもファラオの心は頑なになり」とある。

この先、何度もくり返し出てくるフレーズだ。

 

「ふん、なにが主だ。ちょっと魔術がうまいだけで、偉そうな顔をするな。俺をだれだと思っている」といったところだろう。

 

翌朝、今度はナイル川に異変が起きる。

 

モーセとアロンは主が命じられたとおりに行った。モーセはファラオとその家臣たちの目の前で杖を上げ、ナイル川の水を打った。すると、ナイル川の水はすべて血に変わった。ナイル川の魚は死に、ナイル川は臭くなり、エジプト人ナイル川の水を飲めなくなった。エジプト全土にわたって血があった。(20-21)

 

これもまた呪法師たちが真似をした。

 

しかし、エジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。それで、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。ファラオは身を翻して自分の家に入り、このことにも心を向けなかった。(22-23)

 

同じことをしたとはいえ、スケールはまるで違ったものだったろう。

モーセのしるしは主のわざだったのに対し、呪法師たちのそれは手品師程度のことだった。

ファラオはますます心を頑なにして、主のわざであることを否定したのだ。

 

このファラオの態度は、まさに人間の罪人としての姿を象徴している。

どんなに本物の神がご自身を現しても、頑として頭を下げない。

いや、あれは嘘だ、魔術だ、偶然だと、認めない。

聖書は宗教だ、人間の産物だ、ただの思想だ、神などいない。

これが人間の根っこにある。

 

愚か者は心の中で「神はいない」と言う。
彼らは腐っていて、忌まわしいことを行う。
善を行う者はいない。
主は天から人の子らを見下ろされた。
悟る者、神を求める者がいるかどうかと。
すべての者が離れて行き、
だれもかれも無用の者となった。
善を行う者はいない。
だれ一人いない。(詩篇14:1-3)

 

きょう、わたしたちはどうだろうか。

ファラオの道を行かないようにしたい。

 

ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」(ヘブル3:7-8)

 

 

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