みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

わたしが聖であることを現わさなかった

しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現わさなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」(民数記20:12)

 

なんということだろう。

出エジプトから40年間、主と民とに忠実に仕え、民を導いてきたモーセとアロンが、目指すカナンの地に入ることができないと告げられた。

彼らが主を「信頼せず」、主が「聖であることを現わさなかった」ためだ。

 

水のない荒野で、民が二人に詰め寄ったのが発端だった。

ひれ伏すモーセとアロンに、主が語られた。

 

主はモーセに告げられた。「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。(7-9)

 

問題は、このあとだ。

モーセらしからぬ言動を取ってしまう。

 

モーセとアロンは岩の前に集会を招集し、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。(10-11)

 

モーセは、

  1. 自分たちが水を出すかのように語った
  2. 岩を二度も打った

 

主は「岩に命じる」ように言われたのであって、「打て」とは言われなかった。

おそらく二度打った間には、少しの間があったのではないか。

 

一度打った。

神は、それをご覧になり、沈黙された。

 

「ええい、もう一度」と、二度目を打った。

神は、ある意味妥協して、水を湧き出させた。

 

ここに、モーセの高ぶりと不信仰が出てしまったのだ。

 

信仰の道は、どんなに長く忠実に歩んでいても、ふとしたことで踏み外すことがある。

その意味では、信仰は貯蓄がきかず、その時々で主の前にどうあるかだ。

 

ああ、わたしは、なんと簡単に自分の力であるかのような物言いをすることだろう。

「主が聖であること」を現わしているかどうか、常に問われている。

 

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、ただあなたの御名に、栄光を帰してください。あなたの恵みとまことのゆえに。(詩篇115:1)

 

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