みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

鋳物の子牛

民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」(出エジプト32:3-4)

 

ここは、なんとも悲しくなる章だ。

モーセが山から何日も下りて来ないのにしびれを切らした民が、偶像を求めたのだ。

 

民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」(1)

 

「神」ではなく「神々」と言い、しかも神を造るという本末転倒。(もっとも宗教とはそんなものだが)

さらには、「エジプトの地から導き上った」のが神ではなく、モーセになっている。

早くも、民の不信仰極まれり、だ。

 

あえて彼らに同情するとすれば、彼らは不安だったのだと思う。

そして、モーセを、神を、待ち切れなかったのだ。

 

自分の思うようなタイミングで事が起きないと、わたしたちは不安に駆られる。

待ち切れずに不信仰に陥り、肉の思いで勝手なことをしてしまう。

 

アロンはアロンで、神よりも人間を恐れた。

これもまた、罪に陥る落とし穴だ。

 

彼らは翌朝早く全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えた。そして民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた。(6)

 

この「戯れる」という言葉は、多分に性的な意味を含んでいるそうだ。

偶像崇拝は道徳的退廃につながる。

それはそうだろう。

人間が勝手に神を造り出し、勝手なことをするのだから。

 

山から下りて来たモーセは、この騒ぎを耳にする。

 

モーセは言った。「あれは勝利を叫ぶ声でも敗北を嘆く声でもない。私が聞くのは歌いさわぐ声である。」(18)

 

音楽にもいろいろある。

本来は、神をほめたたえるために、人間に与えられたものだ。

人間が肉的に興奮し、喜ぶためではない。

 

結局、モーセの命により、三千人が殺された。(28)

なんと恐ろしいことだろうか。

 

不安に駆られたり、人を恐れたりして、悪魔の罠に陥らないようにしたい。

 

このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。だれにも空しいことばでだまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順の子らに下るのです。ですから、彼らの仲間になってはいけません。あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。(エペソ5:5-8)

 

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