みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

顔と顔を合わせて

主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。(出エジプト33:11)

 

33章のキーワードは、「顔」だ。

冒頭もそのひとつ。

もっともモーセは直接主の御顔を見たわけではなく、それほど近く、親しく語られたということだ。

 

主は、鋳物の子牛の事件のあと、重大な宣言をされた。

 

「・・・わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」(3)

 

これを聞いた民は嘆き、モーセはとりなしの祈りをした。

 

主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(14)

 

以前の新改訳では、「わたし自身がいっしょに行って・・・」となっていた。

2017版の注釈を見ると、この「臨在」という言葉の直訳が「顔」とのことだ。

 

モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。」(15)

 

これらを直訳どおりになおすと、

 

「わたしの顔がともに行き」

「もしあなたの御顔がともに行かないのなら」

 

となる。

顔は存在の象徴だ。

 

ただし、人は主の御顔を直接見ることはできない。

 

また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(20)

 

「わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」(23)

 

こう言われたお方のふところから、わたしたちが見ることができる人の姿をとって、地上に来られたのがイエス・キリストだ。

 

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。・・・いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ1:14・18)

 

イエス・キリストは、世界的偉人でもなければ、宗教家でもなく、ましてキリスト教の教祖などでもない。

神のふところから来られた、ひとり子の神だ。

 

さて、わたしたちはどんな顔で主を仰ぐだろうか。

アダムが罪を犯して主の御顔を避けたように、あるいはカインが怒って顔を伏せたように、顔を背けるだろうか。

それとも、「この取税人のようでないことを感謝します」と言ったパリサイ人のように、他人との比較に立ってドヤ顔で祈るだろうか。

 

主の血潮のゆえに罪赦され、きよめられた者として、感謝と賛美をもって、すなおに主の御顔を仰ぐ者でありたいと思う。

 

「主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。」(1歴代誌16:11)

 

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