みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

彼の顔の肌は輝きを放っていた

アロンと、イスラエルの子らはみなモーセを見た。なんと、彼の顔の肌は輝きを放っていた。それで彼らは彼に近づくのを恐れた。(出エジプト34:30)

 

鋳物の子牛の周りで踊る民を見て、モーセは怒りのあまり、神から授かった石の板を砕いてしまった。

そこで主は、モーセに同じような石の板を切り取って、もう一度山に登るように指示された。

 

そして、またしても四十日四十夜、モーセは主との交わりの中に置かれた。

 

それから、モーセシナイ山から下りて来た。モーセが山を下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。(29)

 

モーセは気づいていなかったが、彼の顔はまばゆいばかりに光を放っていた。

「主と話したため」だ。

 

私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。(1ヨハネ1:5)

 

光なる神と交わり続けた結果、月が太陽光を反射するように、モーセの顔は神の光を反射した。

 

神の輝きを表している人として、私は特に二種類の人を思い浮かべる。

 

一つは、死に臨もうとしている聖徒だ。

死を前にして、神だけを仰ぎ、神だけに期待し、神にいっさいをゆだねた人の輝きは、もはやこの世のものではない。

 

・・・みなステパノに目を注ぐと、彼の顔は御使いの顔のように見えた。・・・聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。(使徒6:15・7:55-56)

 

もう一つは、赤ちゃんだ。

もっとも無力でありながら、もっとも多くの人を笑顔にする。

 

両者とも、自分の力では何もできず、すべてをゆだねきっている存在だ。

 

さて、パウロはコリント人への第二の手紙で、モーセの栄光を「消え去る栄光」と言った。

 

石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。(2コリント3:7-9)

 

イエス・キリストを信じ、神の子どもとされ、御霊によって歩むわたしたちは、律法に生きるモーセよりも栄光に満ちあふれる、と言っているのだ。

 

主よ、この恵みの大きさがどれほどのものか、少しでも知ることができるよう、わたしの霊の目を開いてください。

 

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(2コリント3:18)

 

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