みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

あり余るほどのこと

モーセに告げて言った。「民は何度も持って来ます。主がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどのことです。」(出エジプト36:5)

 

神が命じられた「幕屋」の建設が始まった。

モーセは告げた。

 

「ベツァルエルとオホリアブ、および、聖所の奉仕のあらゆる仕事をする知恵と英知を主に授けられた、心に知恵のある者はみな、すべて主が命じられたとおりに仕事をしなければならない。」(1)

 

知恵は主から授けられるものであることがわかる。

 

モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および主が心に知恵を授けられた、すべて心に知恵ある者、またその仕事をするために進み出ようと、心を動かされた者をみな呼び寄せた。(2)

 

主は人に知恵を授け、人の心を動かされる。

パウロは、こう言った。

 

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。(ピリピ2:13)

 

難しいのは、心にある思いが神からのものなのか、それとも自分の肉からのものなのか、という問題だ。

ひとつだけ言えるのは、神は、わたしたちが高ぶるような方法はけっして取られないということだ。

御霊の働きは、つねに、高ぶりとは逆方向にある。

 

彼らは、聖所を造る奉仕の仕事のためにイスラエルの子らが持って来たすべての奉納物を、モーセから受け取った。しかしイスラエルの子らは、なおも朝ごとに、進んで献げるものを彼のところに持って来た。(3)

 

民がつぎからつぎへと奉納物を献げてやめないので、工夫たちは困り果て、冒頭のようにモーセに言った。

この「あり余るほどのこと」は、直訳では「あり余るほどの奉仕」とある。

 

思うに、このときの民は心から喜びに満ち、幸せだったろう。

彼らの思いはひとつだ。

 

主に献げたい。

主に喜ばれたい。

主に用いてもらいたい。

 

それが「あり余るほどの奉仕」となって溢れ出た。

パウロは、エペソの兄弟たちへの別れの言葉として、こう語った。

 

「・・・また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」(使徒20:35)

 

喜びを失い、不平不満で心が埋まっているような、そんなときはたいてい「受ける」ことばかり求めている。

反対に喜びと力に満ちているときは、「与える」生き方をしている。

 

「受ける」ことを求めると枯渇し、「与える」ことを始めると溢れる。

ほんとうに不思議なことである。

 

神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。(2コリント9:8)

 

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