みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

主がモーセに命じられたことをことごとく行った

ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルは、主がモーセに命じられたことをことごとく行った。(出エジプト38:22)

 

引き続き、ベツァルエルとオホリアブを中心とした幕屋建造の記録だ。

38章は、祭壇、洗盤、庭など。

 

彼とともに、ダン部族の、アヒサマクの子オホリアブがいた。オホリアブは、彫刻をする者、意匠を凝らす者、また青、紫、緋色の撚り糸と亜麻布で刺繍をする者であった。(23)

 

ベツァルエルが大工の棟梁なら、オホリアブはチーフデザイナーといったところか。

いずれにせよ彼らは、「主がモーセに命じられた」とおりにすべてを作っていった。

 

モーセは、主からこう言われていた。

 

「よく注意して、山であなたに示された型どおりに作らなければならない。」(出エジプト25:40)

 

したがって、ベツァルエルたちの緊張感はただならぬものだったろう。

はたしてこれらすべてをこの細かな指示どおりに作ることができるだろうか、と不安になったかもしれない。

 

しかし彼らは、主からその力を与えられることを確信していた。

 

「ベツァルエルとオホリアブ、および、聖所の奉仕のあらゆる仕事をする知恵と英知を主に授けられた、心に知恵ある者はみな、すべて主が命じられたとおりに仕事をしなければならない。」(出エジプト36:1)

 

わたしたちは、どうだろう。

主にふさわしく歩むことなどとうてい無理だと、心のどこかで思っていないだろうか。

「私」という存在を、主の宮として、みこころにかなったものにすることは不可能だと。

 

しかし、思い出そう。

イエス・キリストを信じた者には、キリストの御霊が与えられていることを。

 

しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。(ローマ8:9-10)

 

わたしの心は汚れたものだが、キリストの心はまったく違う。

 

しかし、私たちはキリストの心を持っています。(1コリント2:16)

 

ここにこそ、いや、ここにだけ、わたしたちの勝利の秘訣がある。

これ以外にはない。

ベツァルエルたちが授けられた力を信じて主の仕事にあたったように、わたしたちはキリストの御霊が与えられていることを信じ、「よく注意して」、みこころにかなう歩みへと進もうではないか。

 

さて、主の囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4:1)

 

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