みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

わたしは主である

神はモーセに語り、彼に仰せられた。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主という名では、彼らにわたしを知らせなかった。」(出エジプト6:2-3)

 

倍加したイスラエルの民の苦しみを訴えるモーセに対し、神はこのように語られた。

 

ここで、「わたしは主である」と言われている。

アブラハム、イサク、ヤコブには「全能の神」として現れたが、いま、「主」という名をあなたに示す、と。

「名は体を表す」というが、聖書においては特にそれが言える。

名がそのものの本質を示しているのだ。

 

わざわざ「主」としてご自身をお示しになったのは、なぜだろうか。

つづく節に、その答えがある。

 

「それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神であり、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは主である。』」(6-8)

 

ここを読んで、はっきりと気づくことがある。

それは、主語は主である、ということだ。

くり返し、「わたしは~する」と述べられている。

文字どおり、主が“主”語なのだ。

 

つまり、事を成す、その主体は主ご自身だ。

モーセでもなければ、イスラエルの民でもない。

主がすべてを支配し、動かし、導いておられる。

そして、そのすべてが主の栄光につながる。

 

神が「主」であるというのは、単にしもべにとっての「主人」ということではない。

いっさいを成されるのは「主」である、という意味だったのだ。

 

このことに思い至り、わたしは不思議な安堵に包まれる。

なにを心配しているのだろう。

なにを力んでいるのだろう。

いっさいは「主」の御手の中ではないか、と。

 

来て、見よ。主のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。主は、地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれる。「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」(詩篇46:8-10)

 

 

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