みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

彼らの前に置くべき定め

これらはあなたが彼らの前に置くべき定めである。(出エジプト21:1)

 

21章から、さまざまな状況に対する“法律”が与えられる。

 

19章に、モーセのもとに正しいさばきを求めて、民がひっきりなしにやって来る光景があった。

イスラエルの民は二百万人近い大集団で、現代に置き換えてもりっぱな大都市だ。

それだけ人がいれば、当然、日々、さまざまなもめ事が生じる。

そのさばきの指針として、このような法が与えられた。

 

一読してわかるように、「~しなければならない」「~してはならない」といった形式が並ぶ。

法とは本来、そのような強制と禁止を、その本質とするのだろう。

 

「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。ただし、彼に殺意がなく神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに、彼が逃れることができる場所を指定する。しかし、人が隣人に対して不遜にふるまい、策略をめぐらして殺した場合には、この者を、わたしの祭壇のところからであっても、連れ出して殺さなければならない。自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。」(12-15)

 

当時から殺人があったことがわかる。

また、両親への侮辱は重罪とされた。

 

「自分の父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない。」(17)

 

読みながら思うのは、これは人間が“罪人”だからこその規定である、ということだ。

人に罪がなく、みなが神の御心のとおりに愛し合うのであれば、このような法はいらない。

 

エスさまは、つぎのように語られたことがある。

 

彼らはイエスに言った。「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか。」イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。」(マタイ19:7-8)

 

律法は人間の心の頑なさゆえに生じた、と言える。

人間が罪から解き放たれ、神の御霊によってのみ生きることができれば、律法はもはや必要ない。

それがもう成就したと言ったのが、パウロだった。

 

御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。・・・しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。(ガラテヤ5:18・22-23)

 

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