みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

朝から晩まで

そこで彼らは日を定めて、さらに大勢でパウロの宿にやって来た。パウロは、神の国のことを証しし、モーセの律法と預言者たちの書からイエスについて彼らを説得しようと、朝から晩まで説明を続けた。(使徒28:23)

 

四週間にわたって読んできた『使徒の働き』も、きょうで最終章となる。

ここまで使徒たちといっしょに、あちこち巡った気分になっている。

使徒の働き』を、これほど面白いと思いながら読んだのは初めてだ。

聖書は、いつも新しい。

 

大変な苦労を乗り越えて、パウロはやっとローマに辿り着いた。

さっそく彼は、ユダヤ人たちに対し、主イエスを証しした。

 

「朝から晩まで」語ったとある。

どんな順番で、どんな話をしたのだろうか。

きっとぐいぐい引き込まれる話だったろう。

(もっともかつて、あまりの長話に眠りこけて三階から落ちた青年もいたが(20:9))

 

このときパウロが何歳だったのか正確にはわからないが、晩年であることは確かだ。

その彼が、溢れる情熱をもって「朝から晩まで」語り続けた。

その熱意に、感銘を受ける。

  

パウロはコリント人に宛てた手紙で、こう書いている。

 

私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。・・・弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。(1コリント9:19-20・22)

 

あのパウロですら、「何とかして、何人かでも救うため」に労苦した。

簡単なことではない。

 

私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。(同23)

 

パウロの熱意と、もう一点注目したいのは、モーセの律法と預言者たちの書から」エスについて語ったことだ。

つまり、いまの旧約聖書から、イエスさまについて証言した。

 

パウロの多くの書簡が新約聖書に納められたくらいだから、当然このときの聖書とは旧約聖書を指す。

その旧約聖書が、実はイエス・キリストを指し示しているのだということを、パウロは証明しようとした。

 

エスさま自身も、こう言われたことがある。

 

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」(ヨハネ5:39)

 

キリスト者の信仰は、新約聖書のみに基づくものではない。

旧約・新約合わせた“聖書全体”に基づく。

主のみこころの現れ、イエスさまご自身の現れと受けとめて読むならば、旧約聖書もより生き生きと読めることだろう。

 

パウロは、わたしたちにとって最高の教師であるだけでなく、最高の模範でもある。

彼の残した言葉から、少しでもその思いをわがものとして味わい、成長できたらと思う。

 

けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。(2テモテ4:5-7)

 

 

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