真実で理にかなったことば
パウロは言った。「フェストゥス閣下、私は頭がおかしくはありません。私は、真実で理にかなったことばを話しています。」(使徒26:25)
アグリッパ王とその妹ベルニケ、総督フェストゥス、千人隊長、町の有力者たちが謁見室に集まった。(使徒25:23)
そこに呼び出されたパウロが、彼らに弁明するのが26章だ。
パウロはこのときも、自分がかつてイエスの名に強硬に反対して信者たちを迫害したこと、そのさなかでイエスと出合い、この道の伝道者となったことを証しした。
ただ、これまでと異なるのは、イエスと出合ったときの様子について、より詳細に語っていることだ。
「・・・主はこう言われました。『・・・わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。』」(15・17-18)
ここに「救われる」とはどういうことかが、端的に示されている。
救われるとは、
- 闇から光に、サタンの支配から神に立ち返る
- イエスを信じる信仰によって罪の赦しを得る
- 相続にあずかる
ことである。
そして、そのためにはまず、「目が開かれる」必要がある。
話が死者の復活にまで及んだとき、フェストゥスが叫んだ。
パウロがこのように弁明していると、フェストゥスが大声で言った。「パウロよ、おまえは頭がおかしくなっている。博学がおまえを狂わせている。」(24)
フェストゥスの反応は、しごく真っ当なものだ。
闇だ、サタンだ、復活だと、パウロが熱く語るのを聞けば、現代人ならずとも、「こいつは、おかしい」と思うだろう。
これに対しパウロは、冒頭のように、「真実で理にかなったことばを話しています」(25)と答えた。
キリスト者が信じていることは、「真実で理にかなって」いる。
仮想の観念上の話などではなく、もっとも現実的なことである。
二千年前に、「物が落ちるのは地球の引力のせいだ」と言ったなら、「頭がおかしくなっている」と言われただろう。
しかし、それは事実だ。
あるいは、「太陽が動くのではなく、地球が動いているのだ」と言ったなら、同じ扱いを受けただろう。
しかし、それも事実だ。
パウロは、「神から遣わされたキリストが人々の身代わりとして死に、復活し、それを信じる信仰によって誰もが罪赦され、御国を相続するようになる」と語って、「頭がおかしい」と言われた。
しかし、それは万有引力や地動説以上に事実なのだ。
ただ、いわゆる科学的真理と聖書の真理には、大きな違いがある。
前者が実験によって“確認”するものであるのに対し、後者は「天からの光」によって“確信”するものであるという点だ。
「その途中のこと、王様、真昼に私は天からの光を見ました。」(13)
人の「目が開かれる」のは、この「天からの光」による。
だから聖書は「真実で理にかなったことば」でありながら、「天からの光」がないかぎり、どんなに頭脳優秀な人であってもわからないのだ。
十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。(1コリント1:18-21)