みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

キリストに対する真心と純潔

私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。(2コリント11:2-3)

 

10章でパウロは、自分の限度をわきまえず、使徒であるかのように振舞う人たちを批判した。

11章では、よりはっきりと、強い口調で警告する。

 

実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受け入れたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。(4)

 

「別のイエス」、「異なる霊」、「異なる福音」を、コリント教会の人たちはのみ込んでしまっていた。

 

こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。(13-15)

 

サタンとそのしもべたちの得意技は「変装」のようだ。

しかも「光の御使い」を装うというのだから、恐ろしい。

 

サタンがエバを欺いたようにあなたがたも汚されるのではと、パウロは心配した。

なぜなら、教会はキリストの「婚約者」であるからだ。

 

ユダヤの婚礼では、1年以上の婚約期間を過ごすという。

その間、花嫁は夫に嫁ぐために自分を整えて生活する。

 

婚約期間の気持ちは、どんなものだろう。

心にはつねに相手のことを想い、喜びをもって、生き生きとした暮らしを送るのではないだろうか。

その相手が、だれよりも素晴らしい、これ以上ないほどの愛に満ちた方であるなら、なおさらだ。

 

教会はキリストの花嫁とされているが、いまはそのような「婚約期間」といえる。

まもなく主は、迎えに来られる。

婚約者であるわたしたちは、いま、すばらしい夫であるキリストに嫁ぐための準備期間にある。

 

「キリストに対する真心と純潔」から離れることのないよう、身を慎んで歩もう。

 

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。(ヘブル12:2)

 

 

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