みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

人間を誇ってはいけません

ですから、だれも人間を誇ってはいけません。(1コリント3:21)

 

パウロは、コリントの人たちに対し、あなたがたは「御霊に属する人」ではなく「肉に属する人」になっていると、厳しい口調で書いた。

 

あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。(3-4)

 

アポロについては、『使徒の働き』につぎのようにある。

 

さて、アレクサンドリア生まれでアポロという名の、雄弁なユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。・・・彼はそこに着くと、恵みによって信者になっていた人たちを、大いに助けた。聖書によってイエスがキリストであることを証明し、人々の前で力強くユダヤ人たちを論破したからである。(使徒18:24・27-28)

 

この記述からも、彼がいかに有能で魅力的な人物であったかがわかる。

ひとことで言えば、"カリスマ性"のある人だった。

しかし、往々にしてそういう人には"ファン"がつき、結果として分派や党派心を起こしやすい。

これは、わたしたち現代のクリスチャンも、陥りがちなところではないだろうか。

 

「アポロのメッセージは、稲妻に打たれるようで凄いよね」

「いやいや、聖書を深く解き明かすパウロのほうが私は好きだよ」

「やっぱりケファの、素朴で親しみやすい言葉が一番じゃないか」

 

パウロは、そのような風潮に対して、強い言葉で問いかけた。

 

キリストが分割されたのですか。(1コリント1:13)

 

分派の問題は、1章からすでに扱われている。

根本的な原因として、パウロは一貫して、人間の「誇り」を指摘している。

 

だれも自分を欺いてはいけません。あなたがたの中に、自分はこの世で知恵のある者だと思う者がいたら、知恵のある者となるために愚かになりなさい。(18)

 

「誇り」という言葉は、一般的には良い意味で使われることが多い。

「誇りを持て」「俺たちにはプライドがある」など。

 

しかし、聖書においては、たいていマイナスの言葉として扱われる。

それが"人間の誇り"である場合には、特にそうだ。

 

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)

 

同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。(ヤコブ3:5新改訳第三版)

 

これに対し、健全な「誇り」は、主にあって誇る。

 

私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。(詩篇34:2)

 

私たちはいつも神によって誇りました。また、あなたの御名をとこしえにほめたたえます。(詩篇44:8)

 

主にある誇りは主を見上げさせ、わたしを小さくするが、人間の誇りは他者を見下し、わたしを高ぶらせる。

人を敬うのはすばらしいことだ。

しかし、人間を誇り始めるとき、わたしたちは誇り高ぶりの罠に陥る。

気づきにくいところだけに、十分に注意したい。

 

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(6-7)

 

「―主はこう言われる―知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。―主のことば。」(エレミヤ9:23-24)

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村