私に倣う者となってください
ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。(1コリント4:16)
パウロはここまでコリントの人たちに対し、分裂の根本原因が彼らの「高ぶり」にあると指摘してきた。
兄弟たち。私はあなたがたのために、私自身とアポロに当てはめて、以上のことを述べてきました。それは、私たちの例から、「書かれていることを越えない」ことをあなたがたが学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。(6)
そしてひとつの結論として、「私に倣う者となってください」(16)と書いた。
パウロに倣うとは、どういうことだろうか?
「キリスト・イエスにある私の生き方」(17)とは、どんな生き方なのか?
それはおそらく、聖書講解や巡回伝道をするということではないだろう。
また、「飢え、渇き、着る物もなく」という生活をしたり、「迫害」や「中傷」を受けることでもない。(11−13)
ひとことで言えば、「謙遜」ということではないか。
「私は、ユダヤ人の陰謀によってこの身に降りかかる数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くし、涙とともに主に仕えてきました。」(使徒20:19)
コリントの人たちは、ほんとうは何も知らないのに、何かを知っていると思い上がっていた。
そしてアポロやパウロをまるでスター扱いし、自らもスター気取りだった。
あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています。いっそのこと、本当に王様になっていたらよかったのです。そうすれば、私たちもあなたがたとともに、王様になれたでしょうに。(8)
これに対しパウロは、自らについてこう言った。
神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、最後の出場者として引き出されました。こうして私たちは、世界に対し、御使いたちにも人々にも見せ物になりました。(9)
これは預言されたキリストの姿でもある。
彼には見るべき姿も輝きもなく、 私たちが慕うような見栄えもない。 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。 人が顔を背けるほど蔑まれ、 私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ53:2−3)
パウロは、いかにも強そうで、弁が立ち、賞賛されるような、そういう人ではなかった。
むしろ、地味で、静かで、あまり目立たない人だったのではないだろうか。
彼は主の前に、また人の前に、謙遜の限りを尽くした。
それこそが、彼の力の根源でもあったのだ。
そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。神の国は、ことばではなく力にあるのです。(19−20)
嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。(ヤコブ4:9−10)