みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

取り除きなさい

新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種無しパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。(1コリント5:7)

 

4章までパウロは、おもに「分派」の問題に焦点をあてて書いてきた。

5章では、「不品行」について書き始める。

注意したいのは、パウロはここで「不品行」を責めているのではなく、「不品行な者を除かない」ことを責めているということだ。

 

不品行が責められるのは当然だ。

 

私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて、実際にそこにいる者のように、そのような行いをした者をすでにさばきました。(3)

 

問題は、そのような者を受け入れてしまっている点にあった。

 

それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか。(2)

 

2節、冒頭にあげた7節、さらには13節と、三度も「取り除く」という言葉を使っている。

これが本章の主題であることは、疑いもない。

 

パウロは6~8節で「過越の祭り」についてふれている。

わたしは長い間この箇所を、個人的な言葉として受け取っていた。

罪という古いパン種を心に許していると、たちまちそれに支配されてしまう。

すでに過越の子羊キリストが屠られ、いま自分は種のないパンとされたのだから、聖く生きよう、という具合に。

 

しかし、この箇所を文脈に則して読むならば、ここでいう「わずかなパン種」(6)は不品行を悔い改めない者を指し、「種なしパン」とは教会を指していると思われる。

 

もう一歩突っ込んでいえば、不品行な者に対する“あいまいな態度”が、「悪意と邪悪のパン種」(8)といえるかもしれない。

 

外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中からその悪い者を取り去りなさい。」(13)

 

人をキリストの教会から除くのは、大変重大なことで、軽々しくできるものではない。

この件に関する最良の指針をイエスさまご自身が語っておられるので、確認しておこう。

 

「また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」(マタイ18:15-17)

 

 

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