みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

主に推薦される人こそ本物

自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。(2コリント10:18)

 

この「本物です」の箇所は、以前の新改訳では「受け入れられる人です」となっていた。

他の訳では、

新共同訳/適格者として受け入れられるのです

口語訳/確かな人なのである

などと訳されている。

 

パウロはここで、自らの使徒としての役割について述べている。

彼を「肉に従って歩んでいる」と批判する人たちがいたし(2)、「自分自身を推薦している人たち」もいた(12)。

次章でパウロは、彼らのことを「サタンのしもべども」と痛烈に批判するのだが、パウロが教会の健全な成長のためにいかに苦心しているかが伝わってくる。

 

パウロは、「本物」として次のように言った。

 

私たちは限度を超えて誇りません。神が私たちに割り当ててくださった限度の内で、あなたがたのところにまで行ったことについて、私たちは誇るのです。(13)

 

「本物」は謙虚であり、「限度」をわきまえている。

反対に、限度を超えることが「高ぶり」だ。

 

私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。(5)

 

罪の本質は「高ぶり」であり、限度を超えることだ。

 

神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16-17)

 

神が設けられたこの「限度」を、アダムは超えた。

そそのかしたサタンも、本質的にそういう存在だ。

 

「おまえは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』」(イザヤ14:13-14)

 

神のしもべか、サタンのしもべか、その違いは限度を超えているかどうかにある。

もし誰かが、「私の言うことは神のみこころです」とか、「これがあなたに対する神からのメッセージです」などと言うとしたら、それは限度を超えていると私は思う。

そういう人は「自分自身を推薦する人」であり、神のしもべとは言えない。

 

パウロは、主と一つであったからこそ、徹底して謙遜であった。

 

私たちは、自分の限度を超えてほかの人の労苦を誇ることはしません。ただ、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間で私たちの働きが、定められた範囲の内で拡大し、あふれるほどになることを望んでいます。(15)

 

限度をわきまえて主の前にへりくだる者は、平安に満たされる。

それもまた、御霊の働きといえる。

 

「誇る者は主を誇れ。」(17)

 

 

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