みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

神の恵みを無駄に受けないように

私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。(2コリント6:1)

 

尊い宝があふれるほど注がれているのに、まるでザルで受けるように無駄にしてはいないか。

パウロは、コリントの教会にそう問うた。

 

3〜10節では、独特の表現で、自分が「神のしもべ」としていかに真実を尽くしているかを述べている。

 

むしろ、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しています。・・・また、ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。(4、8-10)

 

14節からの言葉も、印象的だ。

 

不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。(14)

 

コリント教会の問題のひとつは、罪に対する「妥協」だった。

それをパウロは、「恵みを無駄に」することだと言いたかったのかもしれない。

 

それにしても、不信者とくびきをともにしないとは、どういうことだろうか。

 

「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。」(17)

 

これは、具体的にどうすることなのか。

信仰者として、いつも悩むところではないだろうか。

あらゆる人間関係を断ち切って、隠遁生活を送ることではないはずだが。

 

そんなことを考えて、ふと思った。

エスさまこそが、お手本だと。

 

エスさまは、隠遁どころか、世の人たちと積極的に関わられた。

しかし、世に流されることなく、つねに御父と一つになって歩まれた。

 

わたしたちが関わるものが、神との交わりを阻害するものであるなら、それは「つり合わないくびき」と言うべきだろう。

何がそのような「くびき」であるのか、離れるべきもの、聖められるべきものは何かを、主に示していただこう。

 

「そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。―全能の主は言われる。」(17-18)

 

エスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。」(マタイ22:37-39)

 

 

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