みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

地上の住まいである幕屋が壊れても

たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。(2コリント5:1)

 

昔、信仰の師と仰いだ方が末期がんのご婦人に福音を語る場に、同席したことがある。

「死ぬことは大したことではないよ。一階から二階に上がるようなもんだよ。天国に行ったら、前にちょっと辛いことがあったかなと思うくらいだよ」

婦人は病で腫れあがった瞳から大粒の涙を流して、うなずきながら聞いておられた。

 

“自分史”というものを作るとすれば、いまの人生は「地上の幕屋時代」とでもいうようなものだろう。

それがすべてではない。

それどころか、「永遠の住まい」に移ってからが、ほんとうの人生だ。

 

おかしいと思われるだろうか?

しかし、キリスト者にはこの確信が与えられている。

 

私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。(8-9)

 

師は、イエスさまが十字架に架かられた意味について話された。

すべての人から見放され、捨てられ、罪人として処刑されたことを。

婦人は、「イエスさま、ほんとにかわいそう」と、声を震わせていた。

 

神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(21)

 

こんなに理不尽な話はない。

罪を知らない方が、罪とされた。

そして、罪人である私たちが神の義となる。

 

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。(14)

 

ここに死刑囚の名簿がある。

わたしの名前も、あなたの名前も、記されている。

しかし驚いたことに、名前の横には全員、「済」印が押されている。

もう、わたしもあなたも「死刑執行済み」なのだ。

 

エスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。(ヨハネ19:30)

 

導かれるままに、婦人はイエスさまに祈った。

ほとんど開かない目であっても、顔が晴れやかに輝いているのがわかった。

いまお二人は、天の御国で再会し、喜んでおられるに違いない。

 

こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。(2コリント5:20)

 

 

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