測り知れない力
私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。(2コリント4:7)
この4章にタイトルをつけるとすれば、「落胆しない理由」とでもなろうか。
パウロは、二度、同じことを述べた。
こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。(1)
ですから、私たちは落胆しません。(16)
キリスト者は、落胆する必要がない。
なぜか?
たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(16)
パウロは、わたしたち自身を「土の器」にたとえた。
土は、金や銀と違って珍しくもなく、したがって大した価値もない。
ありふれた、平凡なものだ。
しかし、わたしたちは落胆する必要はない。
金や銀になれと言われているのではないし、何よりこの土の器に、驚くような「宝」が入っているのだ。
それが、「測り知れない力」(7)であり、「イエスのいのち」(10・11)である。
私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現われるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現われるためです。(10-11)
もう一度、しっかりと確認しよう。
わたしたちは、ただの「土の器」だ。
それ以上でも、以下でもない。
その中に宿っているのが、「イエスのいのち」だ。
これ以上の価値あるものはない。
「土の器」である自分を見たなら、落胆するに決まっている。
土は、いつまでたっても土にすぎないからだ。
そこに宿られた「イエスのいのち」に、目を留めよう。
これは、キリスト者だけが知りうるすばらしい奥義だ。
「外なる人」は衰えていく。
しかし、キリストにある「内なる人」は日々新ただ。
加齢も老化も、問題ではない。
「圧倒的な勝利者」だ。
だから、落胆する必要はない。
なんと感謝なことか。
私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。(18)